朝日館の女将のてんてこ舞日記


東日本大震災で被災した小さな旅館の女将の日々
by asahikanokami
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豊かな人生とは

私は結婚するまでの二年間、岐阜県の各務ヶ原市にある紡績工場に勤めておりました。35年も前のお話です。

工場内の定時制高校の家庭科の教師のつもりで就職したら、もうひとつ仕事があってそれは寮母さんでした。

私の受け持ちの寮には、当時金の卵ともてはやされた中学校を卒業したばかりの女の子が100人いました。毎日、何かしらの事件が起こりました。

窃盗、万引き、喧嘩、自殺未遂、失踪、中には妊娠する人がいたり、傷害事件の被害者になる人がいたりで、警察に行くのもたびたびでした。

今思うと世間知らずの私が、良く二年も勤めることが出来たと思います。

寮では毎年一回、父兄会が開かれます。大抵は、我々が父兄の住んでいるところに出かけて行き、彼女達が元気なことを伝え、近所で来春卒業する人を紹介してもらうというものでした。

その為に、事前にテープレコーダー(ビデオはまだありませんでした。テープレコーダーも、テープはカセットではなくてリールに巻かれてました。古っ!)に、生徒一人一人の声を吹き込んでもらい、写真を見ながら声を聞いてもらうのです。

ある晩、その日の録音の順番になった生徒が
「先生に言っておきたいことがあるだけど・・・・・」
と話を始めました。

「隠しておいてもわかることだけど、実は、家のお母さんは韓国人なんです。

戦争中にお父さんと恋愛したんです。終戦になってお父さんが引き上げる時に、必ず迎えに来るからと住所を書いた紙を残して帰ってきたんです。

お母さんは、何度も手紙を書いたけどお父さんからは返事は来なかった。
それでお母さんはお父さんの住所を書いた紙を握り締めて、日本にやってきたんです。

でも、親戚も家族も韓国人の嫁を家に入れるのに反対でした。お母さんは家にも入れてもらえずに、家畜と一緒に納屋で生活していたそうです。

結婚に反対さたからといって、いまさら帰る事も出来ず、働いて嫁として認めてもらうしか方法がなかった。朝はお日様よりも早く起きて畑を耕し、夜は手元が見えなくなるまで働いた。

そして、私が生まれ、妹が生まれて、やっと嫁として認めてもらうことが出来たんです。

でも、私はずっとお母さんを恨んでいました。子供の頃は『朝鮮人、朝鮮人』といじめられました。お母さんさえいなかったら・・・とずっと思っていました。中学生になって、私・・・ぐれたんです。学校にも行かず、家にも帰らず、遊びまわっていたんです。

ここに来たのも、早くお母さんから離れたかったから」

そこまで話して、彼女は一つため息をつきました。

「でもね、先生。私が大人になって好きな人が出来たとして、家族も祖国も捨てて、住所を書いた紙一つ握って海を渡れるだろうか・・・・。

私のお母さんはすごい」

父兄会当日。私はどんなお母さんが現れるのか楽しみでした。
あわられたお母さんは、想像に反して小柄な方でした。

彼女の声のテープを聴いていただいた後、おせっかいかなと思ったのですが、彼女がしてくれた話を伝えました。

「そうですか・・・・そんなこと言いましたか・・・・」

おかあさんのひざの上に組んでいた日焼けした手の甲に、涙がポツポツと落ちました。

父兄会は午後からは宴会です。アルコールが入ったこともあり、歌が飛び出し、それにあわせて踊る人まで出ました。

するとあのお母さんがすっと立ち上がり踊りだしたのです。
その振りは日本の踊りとは明らかに違う振りでした。

手を広げ音楽に合わないことなど気にせずに優雅に踊るお母さん。

私は祖国を捨て、家族を捨て、どんな困難にあっても負けず、自分の信念を貫くことが出来るでしょうか。紙切れ一つを握って、言葉も習慣も違う所に、信じるもののために、身を投げ出すことが出来でしょうか。

豊かな人生とはどんな人生を言うのでしょう。

出世した人。名を成し功上げた人。または、資産を築いた人の人生はきっと豊かな人生と呼ぶのにふさわしいことでしょう。

でも、こういう人生もまた豊かな人生といえる。
若かった私は、おかあさんの踊る姿に涙しながら、そう思ったのでした。

by asahikanokami | 2006-09-09 22:00 | 私のこと
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