元朝日館の女将のてんてこ舞日記
2021-03-10T20:11:18+09:00
asahikanokami
東日本大震災で被災した小さな旅館の女将の日々
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福島第一原発
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2021-03-10T18:55:00+09:00
2021-03-10T20:11:18+09:00
2021-03-10T18:55:41+09:00
asahikanokami
旅の話
節目って何だろう。被災者には節目などあるはずがない。家族を亡くした人、行方不明の人にとってその日は命日だが絶対に節目ではない。昨日から続く今日だ。ましてや何を持って十年で一区切りなどと言うのか、不思議でならない。私は十歳年をとり、かの人たちは十歳若いまま。それだけのことだ。この日は亡くなった人を静かに偲び、思いっきり泣いても良い日だと私は思う。さらに福島県を考えると、原発事故はこの十年間何一つとして解決していない。アンダーコントロールなどされていない。だから十年目、十年目と大騒ぎすることに違和感と腹立たしさを覚える。 昨年の一月。福島県民なら一度は見ておかなければと、半ば脅迫観念のような思いを抱いて福島第一原発の見学に行った。同行したのは、友人の小野文恵アナウンサーと彼女の同級生の某テレビのディレクター、ある企業の広報担当者、そして夫だ。事前に見学の申し込みが必要だという。住所氏名はもちろんの事、生年月日や職業とさらに詳細な肩書までも必要だった。その時にはまだ避難解除されていなかった双葉町と、第一原発の二か所の見学申請を出したのに許可が下りたのは第一原発だけだった。案内してくれた新地高校の先生は、何度も見学申請を出したけれど許可が下りなかったのは初めてだと驚いていた。許可が下りなかった理由は不明である。まず見学者全員が富岡町にある廃炉センターの一室に集められた。ここは東電の施設だ。広い部屋に入るとすぐに三名の社員が出て来て
「事故を起こしてしまい皆様には多大なるご迷惑をおかけしました。申し訳ありませんでした。私たちは誠意をもって事故処理に励んでおります」
と深々と頭を下げた。誠意をもって事故処理に当たっているという言葉が、私には空々しく聞こえた。福島県に住んでいる者は、みんな知っている。みんな思っている。事故処理に誠意をもっているとはとても思えないことを。
続いて東電がいかに懸命に事故処理に当たっているかという、まるでPRのような映像を見せられてから見学用のバスに乗った。普通の格好で良いことにまず驚いた。以前テレビで見た防護服もマスクも必要が無かった。ただ見学中に浴びた放射線量がわかるようにポケットに計測計が入ったベストを着せられた。バスの中にはその場所の線量が表示される大きな計測機械がついていた。一号機が近づくにつれて数字がどんどん上がっていく。デジタル数字は三十マイクロシーベルトと表示している。さらに数字が上がっていく。かすかに恐怖を感じ心臓が動悸を打ち始めた。爆発した一号機の前を通り、二号機の前を通り過ぎる。下から見上げる建屋は想像よりもずっと大きかった。二号機には覆いがかかっていた。そして爆発した三号機、ただ一つメルトダウンを免れた四号機とそれぞれの建屋の前を通り抜けた。最後は、四つの建屋がすべて見下ろせる丘の上でバスは停まり、全員がバスから降ろされた。すぐ目の前に一号機が見える。距離は百メートルあるだろうか。建屋の周りは防護壁で覆われているが、屋上の瓦礫は爆発当時そのままに残っていた。瓦礫は、九年間放置されたままになっている。放置というのは正しくないかもしれない。処理しようとしているが、放射線量が高くて手が付けられないのだ。先日の新聞には、七京ベクレルあったという記事が載った。七京・・・ 。使ったことが無い単位なだけにどのぐらい高い数値なのか想像すらできない。二号機は、水素爆発こそしなかったものの、窓が吹き飛んでいる。あの日、二号機は建屋内の空気圧を下げるため、ベントという排気作業が行われた。ベントに使われた煙突は、九年経って劣化が進み崩れる恐れが出てきた。そこで煙突の半分を切り取り、万が一崩落した時に被害が少ないようにと作業中だった。その煙突も線量が高くて作業が遅々として進まない。遠隔操作のロボットを使っての作業だが上手くいかず苦闘している。三号機は一番激しく水素爆発した。見学の時はまだ核燃料棒を取り出す作業が行われていたので、建屋の上に覆いのようなものがかぶせられていた。千五百本あった燃料棒の取り出しは八年かけて先月の末にやっと終了した。だが三号機が終了してもまだ二号機と一号機の燃料棒の取り出しが待っている。線量が高いので遠隔操縦のロボットを使うしかない。すべてが終了するまで三十年以上かかるという。気が遠くなるような話だ。さらにもっと厄介なのがデブリと呼ばれる物の取り出しだ。格納容器内で溶け落ちた核燃料である。放射線量がとてつもなく高い。格納容器の上蓋でさえも三京ベクレルになるという。これは即死する数値だ。高濃度の放射能に邪魔されて、デブリ取り出しの見通しは立っていない。今の技術では手も足も出ないのだ。廃炉にするにはデブリを取り出した後、冷却などの作業を経て四十年以上かかるらしい。その中で四号機は水素爆発したが、点検中で稼働していなかったことが幸いし、燃料棒の取り出し作業が真っ先に終了している。
丘の上から建屋を見下ろすと真っ白な防護服で体中を覆った大勢の作業員が、せわしなく走り回っている。三千人から四千人の作業員が働いていると聞いた。想像以上の人数が働いていることに驚く。丘の下にいる作業員は白い防護服。丘の上の私たちは普通の格好である。ここの線量はどのぐらいだろう。ちょっと不安になる。こうして建屋を見下ろしている間も、絶え間なく放射線が縦横無尽に飛び交っている。その放射線は私の体を通過して細胞を傷つけていると想像したら急に息苦しくなった。
「ここにいられるのは十分間だけです。九分過ぎました。もうバスに乗ってください」
案内員の声に、みんな無言で走るようにバスに戻った。バスの中のデジタル数字は三十六だった。三十六マイクロシーベルトか・・・・ 。今の新地町の線量は0・0六マイクロシーベルトだ。つかの間の滞在とはいえ、これがとても高い数値であることは私でもわかる。息を止めても何の対策にもならないことは知っているが、なんとなく呼吸が抑え気味になるのが不思議だ。全員が乗るとバスはゆっくりとした速度で廃炉センターに向かって走った。急いで帰らなければならないほど被爆はしてないのだろう。ほっとして心臓の鼓動が少しゆっくりになる。構内には、無数の巨大タンクが並んでいる。放射能で汚染された地下水や雨水などを貯めておくタンクだ。その数はすでに一千基もある。一基の中に百十万トンの汚染水が保管されているという。汚染水には今の技術では取り除くことができないトリチウムという放射性物質が残っている。来年には構内がタンクで埋まり、保管場所がなくなる。今、この汚染水の処理も大きな問題になっている。政府と東電は、トリチウム以外の放射性物質を取り除いて、海に放出したいらしい。海は広いから放出してもトリチウムの濃度は薄まるから安全だと主張する。けれども今、海に流したらどうなるだろうか。原発事故の風評被害からやっとここまで復興した福島県。また放射能汚染と騒がれることだろう。農作物はもちろん魚介類も売れなくなる。この十年間の農家や漁師の必死の努力が水の泡と消える。福島県が海に汚染水を放流するかどうかで揺れているときに、宮城県の女川原発の再稼働が決まったというニュースが流れた。宮城県の人たちは、女川の人たちは、福島第一原発の今の姿を知らないのか。十年たっても何も解決していない。一歩も前進していない。これから何十年も放射能に苦しめられる私たちのことを知らないのだろうか。とても悲しくなった。 文恵さんたちをいわき駅まで送った。国道六号線沿いの田んぼや畑に、真っ黒な大きな袋が無数に積まれている。フレコンバックと呼ばれる土嚢だ。汚染された土地の表土が入っている。住宅、公園、学校、田畑などの汚染表土を剥いでフレコンバックに詰めてある。夥しい数の黒い袋が沿道何十キロ、累々と山積みにされている。その異様な風景に車内は無口になった。汚染水だけでなくこの汚染土の始末も大きな問題なのだ。政府は、公共工事のコンクリートに混ぜて使うと言っている。果たしてそれでいいのか。安全と言えるのか。私にはわからない。ふと見ると文恵さんのほほに涙が流れていた。そっと手を握ると
「福島第一原発の電気は全部東京で使われていたのよね。福島県では一ワットも使っていなかった・・・・ それなのに・・・・ ごめんなさいね」
と言った。
「見学できてよかった。実際に現場を見て原稿を読むのと、見ないで読むのとでは伝わり方が違うと思うの。見学できてよかった。美保子さん、連れて来てくれてありがとう」
彼女もまた私の手を握り返した。 この世には人智をもってしても解決できないことがいっぱいある。自分たちは何でもできると奢り高ぶってはならない。自然災害や原子力など人間の力では制御不能なことがまだまだたくさんあるのだ。子孫に美しい地球を残したい。残念ながら福島県は放射能に汚染されてしまった。未だに故郷に帰れない人が多くいる。必死に除染して元の美しい福島県に戻したいと頑張っているが、その道は遥かに遠くとても険しい。今も解決策を手探りで探している状態で、暗闇の先に灯りさえ見えていない。
女川を始め原発保有地の人たちが、私たちのような体験をしないで済むように、原発事故で悲しむこと、苦しむことが無いようにと切に願う。 (令和三年三月十日) (参考)ベクレル 放射能の量をあらわす単位シーベルト 被ばく線量をあらわす単位 ]]>
文章教室に通っています
http://asahikanok.exblog.jp/32144238/
2021-02-12T19:39:00+09:00
2021-02-13T09:15:05+09:00
2021-02-12T19:39:10+09:00
asahikanokami
私のこと
『トットちゃんとみっこちゃん』
黒柳徹子さんの『窓際のトットちゃん』がベストセラーになった時、母から電話がかかってきた。
「『窓際のトットちゃん』を読んだ? あれ読んだらみっこにそっくりだったよ」
と言う。私も読んだけれど自分と似ていると思わなかった。わたしにはもっと常識がある。先生のいうことは良く聞いたし、いつも優等生だった。私は絶対にトットちゃんではない・・・ はずだ・・・。
保育園の時、山の中で迷子になったことがある。
「カラスを取りに行く人この指とまれ!」という私の呼びかけに、近所の子供三人が集合した。なぜカラスだったのか謎だけれど、その時私はカラスを捕まえたいと思ったらしい。母から聞いた話だと、私はカラスを捕まえる道具としてつぶれた洗面器を持っていたという。つぶれた洗面器でカラスが捕まると思っていたのだろうか。カラスを捕まえる場所は、いつも父とキノコを採りに行く山だった。いつも来ている山だからと、皆を引き連れて得意顔で山道を登った。けれどもカラスは捕まらなかった。帰り道、いつもの道と違うと思ったときはすでに遅かった。山の中で迷ってしまった。歩いても、歩いても麓には着かなかった。そのうちあたりがだんだん暗くなってくる。一人が泣きだした。するともう一人、また一人と全員が泣きだした。泣きたいのは私だ。だが私が泣くわけにはいかない。みんなを連れて帰らなければならないのだ。あたりはうっそうとした森。どんどん暗くなり明かりも見えない。
「ホォー。ホォー」暗闇の中から不気味な鳴き声がする。フクロウだろうか。「坂を下ればどこかに着くから泣かないで!」
と皆を励まして沢に沿った道を下りながらも恐怖で足がうまく動かない。暗い山道を必死に歩いたが泣き出したいぐらい心細かった。どのぐらい歩いたのだろう。遠くに明かりが見えた。ほっ。その明かりを頼りに歩き、やっと麓に着いた。家では警察や近所を巻き込んで大騒ぎになっていた。一緒にいたのは年上の子ばかりだったのに、なぜかこっぴどく叱られたのは一番年下の私だった。首謀者とレッテルを張られる。一人だけ泣いてなかったことも大人の心証を悪くした。
「もうみっこちゃんと遊ぶな!」と言われた子もいたらしい。母に
「あんたは、すぐ先頭に立って行動するんだから。こんな騒ぎを起こして!」
と懇々と諭された。ちょっとへこんだ私だったが、子供のことだから立ち直りは早い。そんなことはすぐに忘れて、またすぐにみんなと仲良く遊んだ。 私が小学校に入学して間もなく、母はたまたま学校の前の道を通った。授業中で誰もいないはずの校庭で、一人だけブランコで遊んでいる子がいた。見覚えのある洋服。良く見るとそれはわが子だった。
「みっこ! みんなが勉強しているのに、どうして遊んでいるの? 教室に戻りなさい」
と叱ると、私は
「先生が遊んできなさいって言った」
と楽しそうにブランコを漕いでいる。放課後に母は担任の若い先生を訪ねた。母の顔を見るなり開口一番に先生が言った。
「困っているんです。本当に困っているんです、美保子ちゃんには。私もどう指導した良いのか毎日悩んでいるんです」
先生は、ほとほと困っている様子だった。
近所の子供は全員が年上だった。入学前、保育園から帰って来て遊びに行くと、皆は宿題をしていた。一番仲良しの子は、姉妹四人全員が机を並べて勉強していて、宿題が終わらないと遊びに出してもらえなかった。「みっこちゃん、宿題が終わるまで待ってってね」と待たされた。『聞きたがりのみっこちゃん』と言われるほど好奇心旺盛な私。じっと見ているはずがない。宿題をしている子のそばで
「それはなに? それはなんて読むの? ねぇ、ねぇ、みほこってどう書くの? 」とうるさい。他の姉妹が静かに宿題ができるようにと、一番上のお姉さんがみんなの隣で私に勉強を教えた。算数や読み書きを教そわった。おかげで、私は就学前にひらがなもカタカナも簡単な漢字も書けた。算数も二けたの計算や九九まで覚えた。
今の子供たちと違って、昔は、勉強は学校でするものだった。入学前に字を読める子はほとんどいない。そんな時代なのに私はすでに予習ができていた。先生が教えてくれることは、全部知っていることばかりだった。先生が黒板に『2+2』と書いてイコールを書く前に
「よん!」
と答えてしまう。これでは授業にならない。困った先生は、私が答えることを禁止した。けれど私は言いたくて仕方がないのだ。知っているから大きな声で答えたい。言いたくて、言いたくてウズウズソワソワする。先生にとっては目障り極まりない。どんなに小さな声で答えても、先生には聞こえて注意された。
テストも時も、先生が用紙を配り終えないうちに全問解いてしまう。それだけではない。暇なのであたりを見回すと、他の子の答えが間違っているのが気になってくる。おせっかいな私は、教室中を歩き廻って正しい答えを教えて歩いた。
「ここ違う。3だよ。あ、こっちは7」
「美保子ちゃん! 椅子にちゃんと座っていなさい」
と先生に注意されると、椅子に座ったままズルズルと椅子ごと移動して教えて歩いた。
困った先生は、皆には一枚、私には二枚のテスト用紙を渡した。それでも私の方が早く書き終わった。それならとみんながまだ一桁の計算をしているときに、二桁の計算のテスト用紙を渡した。それでも皆よりも早く終了してしまう。そこで
「美保子ちゃんは、校庭で遊んでいなさい」
ということになったのだ。先生はさぞ教えにくかった事だろう。きっと困ったと思う。邪魔になるからと時々校庭に出された。校庭で遊ぶのに飽きると勝手に図書室や保健室で遊んだ。そこも飽きると校長室にまで押しかけて校長先生と遊んだ。昔の校長先生は威厳の権化で、校長室は児童が遊びに行くような場所でなかった。先生たちでさえ入室するのを遠慮していたのに、私は平気で遊びに行った。休憩時間になると担任の先生がペコペコお辞儀をしながら私を引き取りに来た。校長先生は
「あまり先生を困らせるんじゃないよ」
と言ったけど、私には先生を困らせているという自覚が全くない。だから
「何も困らせるようなことをしていないのに、校長先生はどうしてあんな事を言うのだろう」
といつも不思議で仕方がなかった。
トットちゃんとみっこちゃん。確かに似てないこともない。何にでも興味津々だし、すぐに首を突っ込む。思いついたら物おじせずに行動する。人のことが気になってついついおせっかいをしてしまう。三つ子の魂百までと言うけれど、私のその性格は今もほとんど変わっていない。大好きな黒柳徹子さん。今も第一線で大活躍していることに驚異と敬意を感じている。トットちゃんのおかしなところではなく、徹子さんの素晴らしさにあやかりたいと思うが、そうは問屋が卸さない。
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ツルを編む
http://asahikanok.exblog.jp/31250131/
2020-06-29T13:06:00+09:00
2020-06-29T23:48:40+09:00
2020-06-29T13:06:27+09:00
asahikanokami
私のこと
始末に負えないほど、ジャングル状態に育ちました。
昨年は、おっとっと以外は誰も食べないアケビの実が、百個以上実りました。
ひゃぁ~~~~~!!
そして冬に、選定したら、ツルがたくさん出ました。
捨てるのももったいない。何か作ろう。
アケビのツルを干しておきました。
さて、籠でも作ろうかな。
ネットでツル編みを教えている教室を探したら、ありました!
というわけで、仙台の「ツルを編む」という教室に、隔週ですが通うことになりました。
何でも最初は、ドキドキ、ワクワクします。
先生がとても優しい方で、良かったぁ!
第一回目は、アケビのツルで、壁に掛けられる籠を編みました。
自由に編むというのが、私にぴったりです。
そして二回目は、すこし、丁寧に、きっちりと編む籠を教えてもらいました。
力を均一に入れて編むことができなくて、いびつな籠になってしまいました。
「大丈夫ですよ。それも個性です。なかなか素敵に出来上がりましたね。最初から上手な人は一人もいませんよ」
先生のやさしさで、しょげていた気持ちを立てなおしました。
ちょっと時間が余ったので(雑な分、早く出来上がる)籐を使ったコースターを教えていただきました。
アケビのツルは、硬くて、あちこち曲がっていて、さらに、こぶがあったりするので手こずります。
籐は、柔らかいし、まっすぐなので、編みやすいです。
「籐は、練習するのにもってこいですので、お家でも練習してみてください」
「はぁい!」
素直な私は、家でも練習してみました。
なかなか思うようにはならない。それでも、なんとかコースターが出来上がりました。
7月1日の授業は、タンブラーカバーだそうです。
予習してみました。思うようにきれいに編めない。編み目が揃わない。
籠バックを作りたい私。遠い、遠い、遥かに先の道のりだけど、頑張る!
第一、手と頭を使うから、絶対、認知症予防になると思っています。←これが一番大事!
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心も送っていただく
http://asahikanok.exblog.jp/31200614/
2020-05-25T10:00:00+09:00
2020-05-25T10:19:10+09:00
2020-05-25T10:00:12+09:00
asahikanokami
避難生活
あの時、私は小学校5年生。岩手県の岩泉町に住んでいました。
岩泉も沿岸部が被害を受けました。
幸い、私が住んでいた岩泉町中心部は、海から遠くて被害はありませんでした。
地震の揺れなど何も感じずに生活していたのに、突然、地球の裏側から襲ってきた津波。
子供心に、そんなことが起きるとは信じられず、不思議だと思う事が津波の恐怖を倍増させました。
そして、支援物資が届き、小学校の体育館(当時は講堂と呼ばれてました)は物で溢れました。
毎日、毎日、母が整理に駆り出されて,
講堂に行くと母に会えました。
母と一緒にたくさんの人が支援物資の整理をしていました。
「あんたも手伝いなさい」
と母に言われて、大勢の大人に混じって手伝ったものです。
私は体が大きかったので、邪魔者扱いも子ども扱いもされず、届いた服の整理などを手伝いました。
届いた支援物資の中には、真っ赤なハイヒールもあり
「こんなもの、岩泉で誰が履くんだろう。長靴の方がずっと役に立つのに」
と思ったのでした。
それから50年。
まさか今度は自分が津波被害にあうなど思いもしませんでした。
最初は
「一人2点までです」
と数量制限されて配布された支援物資も、次第に量が増えて
「好きなだけ持って行ってください」
と言われるようになりました。
場所も、次第に大きくなり最後は体育館でした。
すべて流され、明日着るものも、防寒服も無い時に、頂いた支援物資は涙が出るほどありがたかったです。
でも、中には、どう見ても着ることができないような汚れた服や、破けた服などもあり
送ってくださった方は
「着るものが無いのなら何でもいいだろう」
と思ったのかなと、送り主の気持ちが透けて見えて悲しかったです。
「洗濯してあります」
と書かれた下着。洗濯してあっても、どこの誰が履いたのかわからない下着を頂く気にはなりませんでした。
そしてそれから9年の歳月が流れました。
私のタンスの中には、あの時頂いた洋服がまだたくさん残っています。
お友達が下さった物もたくさん残っています。
そろそろ断捨離して少しずつ終活しなきゃと思うのですが、なかなか手放せません。
なぜなら、洋服と一緒に
「がんばってね」
という送り主の心まで受け取っている気がするからです。
送ってくださった方の気持ちがありがたくて捨てられません。
体育館で見た、たくさんの洋服が山積みになっている風景。
あの時、あの体育館の風景から
「こんなに多くの人が、私たちを応援してくれているのだ」
と感動し
「がんばらなきゃ」
と、生きる勇気を貰いました。
でも、やっぱり
「今まで支えてくれてありがとう」
と感謝しながら、少しづつ頂いた服を手放すことにしましょう。
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チクチク三昧の日々
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2020-04-17T13:36:00+09:00
2020-04-17T13:45:43+09:00
2020-04-17T13:36:48+09:00
asahikanokami
私のこと
コロナウィルス騒ぎで、出かけることが無くなりました。会議はすべてなくなり、いろいろな行事も無くなりました。
不要不急以外の外出を控えてくださいと言われては、出た切り老人と家族から呼ばれるほど出歩くのが大好きな私でも、外出を自粛してしまいます。
でも、じっとしているのは苦手。
それなら、いつも手抜きのお掃除や片付けをすればいいのですが、それはしたくない。
好きなことをしたい。
超我が儘になったのは、年齢のせいです。
もうこの歳になったら、嫌なことはせず、好きなことをすると決めたのです。
なんと勝手な言い分でしょう!
自分でも笑ってしまいます。
で、毎日、毎日、刺し子に励んでおります。
まず最初に出来上がったのは、刺し子をしたリュック。
会津木綿に「雪月花」を刺しました。
この図案は、以前、南青山で東北マダムズコレクションを開催した時にお目にかかった刺し子作家の斎藤禮先生のものです。
禮先生のご本から拝借しました。
実際の図案は、もっといっぱい刺しているのですが、自分流に省略しました。
出来上がってみたら、ちょっと大きすぎました。
リュックの中は、外の刺し子の桜にちなんで、桜の布にしました。
そして調子付いた私は、「サンプラーキルト」と呼ばれるキルトに挑戦。
手芸グループ「うみみどり」のメンバーの一人が、作ったバックがとても素敵だったので真似しました。
これも会津木綿です。
端切れがたくさんあるので、どこにどの布を入れたらいいか悩みながらも、とても楽しい時間でした。
出来上がったら、これもちょっと大きい。
私のことだから、いっぱい荷物を入れて重くなるだろうと思い、ショルダーバックになるように、肩ひもを付けました。
うみみどりのメンバーが作ったバックは、ファスナーは付いていなかったのですが、中身が見えないほうが良いかなとファスナーを付けました。
後ろは刺し子にしました。
ちょっと大きかったので、一回り小さいバックも作ってみました。
やはり、会津木綿です。
お揃いでポシェットも作りました。
そしてさらに、余り布でポーチ、きんちゃく袋、ペンケースをお揃いで。
さらに、さらに、バックインバックも作りました。
バックインバックの後ろには、カードがたくさん入ります。
さらにさらにさらに、日本手ぬぐい二枚でポーチも作ってみました。
こちらは、まだ改良の余地ありですので、そのうちリベンジする予定です。
外出自粛で、仙台まで材料を買いに行くことができないので、すべて手元に残っている材料で作りました。
そしてわかったことは、私って案外こういうチマチマしたことが好きかもしれないという事。
朝から晩までずっと刺し子をしていても飽きません。
でもこれは、自分が使いたいという一心で作っているから続けられるのです。
もし誰かに作ってほしいと頼まれても断るだろうな。
こんな面倒くさいこと、自分のため以外には出来ません!
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右近清水公園の桜
http://asahikanok.exblog.jp/31144402/
2020-04-16T19:14:00+09:00
2020-04-18T15:09:12+09:00
2020-04-16T19:14:54+09:00
asahikanokami
我が家の日常
なるべく人と会わないように、不要不急の外出が禁止されました。日本国中引きこもりです。
こんなに大騒ぎしていても、一国の首相夫人が、コロナで出かけられないのは嫌だと、友人を引き連れて旅行に出かけたり、国会議員が、セクシーキャバクラに出かけたりと、何を考えているのか理解不能です。
パチンコ屋さんの駐車場には、相変わらず車がいっぱいだし、スーパーは家族連れであふれています。
子どもたちが店内を傍若無人に走り回り、お母さんが大きな声で呼んでいるのを見ると、飛沫が飛ぶのではと危険を感じます。
家に引きこもっていても、スーパーに買い出しに行っても貯まるストレス。
今日は、お天気も良いので、新地町の右近清水公園の桜を見に行きました。
誰もいないだろうと思って出かけたら、案の定、だぁれもいませんでした。
マスクを外して深呼吸。
こんなにきれいに咲いているのに、誰もいないのは寂しいし、もったいない気がします。
もうすでに満開を過ぎていて、桜吹雪の中、湖畔を散歩してきました。
昨年は、ご近所さんと一緒にお菓子やお茶などを持ってお花見に来ました。
みんなでワイワイと大騒ぎしながら湖畔を散歩しました。
来年こそは、みんなでお花見をしたいものです。
早く、コロナ騒ぎが収まりますように!
それまで、みんなで力を合わせて我慢しましょう。
ほとんどの桜が、散り始めていたのに、遅咲きの「ウコンザクラ」は、やっと咲き初めでした。この桜は、名前の通りにウコン色。ちょっと黄色い桜です。
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そして春
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2020-04-14T08:53:00+09:00
2020-04-17T14:04:51+09:00
2020-04-14T08:53:19+09:00
asahikanokami
我が家の日常
今日4月14日現在で、感染者数は、世界中で190万人。死亡者は12万人にも上ります。
日本も、もちろん、その騒ぎの最中です。
感染者は、8,400人以上。死亡者は、142人になりました。
コロナウィルスの怖い所は、感染してもすぐに症状が出ず、しばらくしてから発熱、息苦しさ、だるさが出るところです。
無症状の間、自分が感染していることに気が付かず、周りの人に感染させてしまう事が一番厄介なことです。
自分が罹患するのは困るけれど、それ以上に家族はもちろん、周りに人に感染を広げるのはもっと困ります。
不急不要の外出をしないようにと言われていて、出た切り老人と呼ばれるほど出歩くのが大好きな私でも、自宅に引きこもっています。
日本中のイベントや行事が中止され、オリンピックも一年延期になりました。
一番感染者が多い東京は、非常事態宣言が出されて、閑散としているらしいです。
それでも世の中は春です!
花芽が一斉に出て、花が咲き始めました。
人間どもの喧騒をよそに、まさに春爛漫。
お花見もすべての場所で禁止になりました。
出たがりの私ですが、じっと我慢して、自宅でお花見です。
玄関わきの枝垂れ桜。これは我が家のシンボルツリーです。
枝もたわわに花を付けました。
そして庭の二本の桜。
こちらは、アーコレードという二期咲き(春と秋に二回咲く)の桜です。
東日本大震災後の集団移転で、ここ雁小屋地区に新居を構えた時に、桜並木ネットワークに申し込んで植えていただきました。
東日本大震災が起きた2011年4月。きっと世の中の桜は、見事に花を咲かせたことでしょう。
でもあの時、私は、その日、その日を生きるのに必死で、いつ桜が咲いて、いつ散ったのかわからないうちに春は過ぎたのでした。
心に余裕がないと、季節を感じることもできないのですね、きっと。
今年の春。
我が家の庭の花がきれいです。
来年こそ、コロナ騒ぎが終息して、みんなでお花見ができますように!
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鶴瓶の家族に乾杯
http://asahikanok.exblog.jp/31076113/
2020-02-29T13:37:00+09:00
2020-02-29T18:58:10+09:00
2020-02-29T13:37:41+09:00
asahikanokami
私のこと
2月の普門寺さんで開催された寺マルシェの最中の出来事。「あっ!鶴瓶さんだ!!」
とうみみどりのメンバーの声に、玄関の方を見たら鶴瓶師匠が入ってくるところでした。
「大勢の人がいる。今日は何なん?」
と鶴瓶さん。
ちょうどライブの時間で、ご夫婦でハーモニカ演奏中でした。
入ってきた鶴瓶さんに驚いて演奏をやめちゃったご夫婦。
「なんでやめるねん。やりなはれ!」
と声をかけて、演奏を続けさせる鶴瓶さん。
一緒に来たのは、いきものがかりの吉岡聖恵さん。なんてかわいい!そしてなんて小さなお顔!!
どうやら家族に乾杯の収録で普門寺を訪れたようでした。
「どの人が住職?」
と呼び出されたバンダナにパッチワーク風つぎはぎジーンズ姿の坂野住職に
「なんや、洋風の住職やな」
と周囲を笑わせます。
その場にいた人や住職のご家族に、さすがというような質問を次々して、場を盛り上げています。
とても愉快なその内容については、3月9日の「家族に乾杯」の放映を見てください。
さて、私はどうしたかというと、鶴瓶さんに伝えたいことがあって、ずっと玄関の鶴瓶さんの靴のそばに立って待っていました。
隣町の人間なので、映らないように後ろの方にいました。
いろいろ展開があって(どれだけの内容が放送されるかは謎ですが)鶴瓶さんが帰って行こうと靴を履きに来ました。
カメラマンもいません。
今だと確信したので、鶴瓶さんの耳元でそっとつぶやいたのです。
「鶴瓶さん、小野文恵アナウンサーの福島の母です。娘がいつもお世話になっています」
「えっ!なんで?」
驚いて振り向く鶴瓶さん。
「震災後、被災地を心配してくれて、時々訪ねて来て励ましてくれているのです。被災地に来てくれるようになって、8年近くなります。その時には、我が家に泊まるのです。年に2,3回は泊まります」
「東北に来てること知らんかったわ。帰ったら言うておく」
そう言い残して鶴瓶さんは普門寺から出ていかれました。
大成功!
そしたら、ディレクターの方から言われました。
「番組の告知が出るまで、小野にも内緒にしてください。SNSにも書かないでください」
はい!
告知が出ましたから、ここに書かせていただきます。
そして収録の時に鶴瓶さんから
「福島の母におうたで!」
と聞いたら、きっと文恵さんは驚くことでしょう。
実は、2月も福島県を訪れていろいろな人に会って話を聞き、原発なども見ている文恵さんです。
被災地に来るのは、取材ではなくて個人旅行と彼女は言います。だからNHKには内緒かな??(ここでばらしちゃった。笑)
一緒に回りながら
「どうして原発を見たいの?」
と聞いたら
「実際に見て原稿を読むのと、見ないで原稿を読むのでは、皆さんへ届き方が違うんじゃないかと思って」
と笑った文恵さん。プロ根性を見ました。
福島の母は、3月9日の放送を今から楽しみにしています。
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コロナウィルスの続き
http://asahikanok.exblog.jp/31063219/
2020-02-19T22:56:00+09:00
2020-02-19T22:56:21+09:00
2020-02-19T22:56:21+09:00
asahikanokami
旅の話
毎日、毎日、感染者が増え続けています。
いつになったら収束するのでしょう。
乗船している人はもちろんのこと、全国民が心配しています。
さらに、渡航歴もなく、感染者が近くにいないのに感染した人があちこちに出て来て、日本中がパニックになっています。
マスクは、もちろんのこと、アルコール消毒剤も町中から消えてしまいました。
特効薬が無いこと、感染経路がわからないことが恐怖を増長しています。
テレビでは、知識を得て、正しく怖がりましょうと言っています。
さて、前に4月11日からのプリンセスダイアモンドのクルーズに申し込みをしていると書きました。
そしたら、お友達からメールが殺到しました。
「お願い!キャンセルして!」
「キャンセル料がもったいないなんて言うな!命の方がもっと大事だろ!」
「もし、行くというなら泣いて止めます!」
など、など。
なんてありがたいことでしょう。
心配してくださるお友達がいるのは、本当にありがたいことです。
本気で心配してくださる友人たちに感謝です。
そして、昨日、旅行会社から連絡が入り、催行キャンセルになりました。
ホッとしています。
またいつか、コロナウィルスの心配がなくなったら、出かけることにしましょう。
皆様、ご心配をおかけいたしました。
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娘の作文
http://asahikanok.exblog.jp/31051014/
2020-02-11T08:29:00+09:00
2020-02-11T08:49:22+09:00
2020-02-11T08:29:00+09:00
asahikanokami
亡くなった娘の話
先日は、姑の23回忌がありました。その前日に、横浜の叔母から菜穂子の作文が見つかったからとコピーが届きました。
そういえば、作文が好きだった菜穂子の卒業記念にと、6年間の作文を一冊の文集にしたことがありました。
津波に流されてもう手元にはない娘の作文。それがこのタイミングで届きました。
これはもう、菜穂子の仕業としか思えません。
仕切り屋の菜穂ちゃんと呼ばれていた娘は、姿こそ見えないけれど、魂は私たちと一緒にいて、大好きだったおばあちゃんのご法事に参加したかったのでしょう。
時々、こんな風に娘の気配を感じることがあります。
娘が傍にいると確信する出来事が起きます。
二年生なのに、まだ習ってない漢字もいっぱい使い文章もしっかりしていると、親馬鹿な母は、ちょっと自慢したい気持ちです。
菜穂子が大好きなおばあちゃんでしたが、嫁の私も大好きな姑でした。本当の親子だってこんなに仲良く暮らせないだろうと思うほど、仲良く暮らしました。それは、姑が観音様のような慈悲と愛にあふれた人だったからです。私は幸せな嫁でした。本当にありがたかったです。
今でも、迷った時には「おばあちゃんならどうするかな?」と考えます。おばあちゃんは、今もまだ、私に人生の指針になっています。姑になった私のお手本です。
おばあちゃん、生まれ変わっても、また姑と嫁になってくださいね。
大好きなおばあさん 二年 村上なほ子大好きなおばあさん。名まえは村上マサヲといいます。男の人のような名まえですが、女の人です。年は六十三才。かおは、わたしにそっくりです。わたしが生まれた時、おかあさんは
「おばあさんそっくりのかおで生まれたよ」と、お父さんに話したそうです。
六十三才になったら、わたしもおばあさんのようなかおになるのかなと思うと、なんだかとってもおかしくなります。体は小さいけれどよくはたらきます。
朝は、五時半におきてごはんをたきます。そして洗たくを始めます。とてもきれいずきで、なんでも少しよごれると、すぐに洗たくをします。だからわたしの家の二だいの洗たくきは、朝からひるまでガラガラと大きな音をだしてまわりつづけています。
午後からは、はりしごとをします。穴があるのはつくろったり、ぼろぼろのものはぞうきんにしたりします。
わたしは、つくろったタイツをはいて学校に行くのははずかしいけれど、おばあさんがいっしょうけんめいぬってくれたんだからと思って、がまんしてはいていきます。
毎ばん、おふろにおばあさんといっしょにはいります。おふろにはいると、わたしは学校のことや友だちのことや、おもしろい話をしてあげます。おばあさんは
「うん、うん」
と言って、わたしの話をなんでもきいてくれます。おばあさんは、なんでも話をきいてくれるので、わたしは友だちのようにいつもおもっています。
おばあさんが、だんだん年をとって死んでしまうとかんがえると、とてもかなしくなります。
なん年もなん年も生きれるくすりというものがあったらいいなぁと思います。
そしたら、たとえ百万円でもかってあげたいなぁと思います。
大すきなおばあさん。
わたしがおばあさんになるまで、元気なおばあさんで、ずっと、ずっと長生きしてください。
(瓦礫の中から見つかった舅と姑の写真)
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コロナウイルス
http://asahikanok.exblog.jp/31042635/
2020-02-05T09:43:00+09:00
2020-02-05T09:43:12+09:00
2020-02-05T09:43:12+09:00
asahikanokami
旅の話
中国で始まったコロナウイルス。中国内だけでなく、世界中のあちこちの飛び火して、大きな話題になっています。
人から人には移らないと言っていたのに、人から人への感染が確認され、さらに感染した人から感染するという3次感染まで起きています。
マスクと手洗いが大事とテレビで報道されるや否や、町中のドラッグストアやスーパーからマスクが消えました。
オイルショックの時のトイレットペーパーが消えた時のことを思い出します。
驚くことに、東北の小さな町の新地町でさえ、マスクは見つかりません。
ひゃ~~~~~!
我が家では、もう一つ、コロナウイルスでは大きなな懸案があります。
おとといから、テレビのワイドショーで取り上げられているのは、大型クルーズ船のプリンセスダイアモンドの乗客の中に感染した人がいたこと。
横浜港に寄港したプリンセスダイアモンドは、検疫のためにすでに二日も沖に停泊中。
そして今朝、乗客に中に感染者が10人以上いることがわかったそうです。
そのダイアモンドプリンセス。
実は、昨年11月に予約申し込み予約をしてしまったのです。
半年前に申し込むと、早期予約で料金が安くなるのです。
しかも、私たちがダイアモンドプリンセスに乗船するのは4回目。回数を重ねるとそれも割引になります。
安くなったと喜んでいました。
1月30日に、ふと不安になって旅行会社に問い合わせました。この時は、まだこんなに大騒ぎしていなくて、中国内で収まっていたのです。
「前回利用した時には、乗客の半数が中国人だったので、コロナウイルスの感染が心配です。不安な気持ちのままの旅行は楽しくないので、キャンセルできますか?」
返事が来ました。
「お申し込みのクルーズのキャンセル料が発生しない期日は、1月28日までです。外務省などから渡航禁止などの通知が来ない限り、旅行のキャンセル料は発生いたします」
えっ~~~~!!
キャンセル料が無料なのは、二日前までだった!
72日前なので、大丈夫だと思っていました。
キャンセル料が高いので、どうしようか迷いました。
もしかしたら、この騒動が大きくなってクルーズがキャンセルになるかもしれない。
そしたら、向こうからのキャンセルなのだから、こちらの責任ではないからキャンセル料は発生しない。
それを待つことにしました。
そしたらこの騒ぎです。
果たして4月のクルーズは、催行されるのでしょうか?
催行されるとしても、きっと、今回のことがあるので船内の消毒や、乗客のチェックは慎重の上にも慎重にすることでしょう。
それなら、かえって安心かもしれません。
まだ、旅行会社からの連絡はありません。
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笑顔
http://asahikanok.exblog.jp/29990081/
2018-08-13T23:21:00+09:00
2018-08-13T23:54:44+09:00
2018-08-13T23:21:10+09:00
asahikanokami
亡くなった娘の話
という娘の希望通り、病室には面会謝絶の札を下げていただきました。
「笑顔の私を思い出してね」
と、何度も言いました。
亡くなってから、辛くて開くことができなかったアルバム。
7回忌が終わって、やっと恐る恐る開きました。10年も前の話です。
どの写真も笑顔、笑顔、笑顔。
菜穂子の楽しそうな笑顔であふれていました。
そして、母はちょっとだけ安心しました。
あなたは人生を笑顔で送ることができたのね。良かった。
今日は、お盆。息子が迎え火を焚きました。
もしかしたら、朝日館があった釣師にうっかりと行ってしまい
「あ、違った!」
と今の家がある雁小屋に慌てて駆けつけたかもしれません。
こうしてパソコンに向かっていると、背中に菜穂子の気配を感じます。
帰って来ているのね、きっと。
お帰り。
おかあさんは、あなたの笑顔ばかり思い出していますよ。
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釣師地区ジオラマの作成
http://asahikanok.exblog.jp/29204518/
2018-01-10T20:44:00+09:00
2018-01-10T23:19:15+09:00
2018-01-10T20:44:44+09:00
asahikanokami
新地町の人々
釣師地区というのは、私たちが住んでいた地域です。
空撮した写真から建物の立体データを取り出し、3Dプリンターで作り上げていくのだそうです。
技術の進歩はすごいですね。
アナログ人間の私には、何度説明を聞いても理解できません。
「朝日館も出来てるよ」
と言われて、街並みを覗いてみたらありました、朝日館。
本館も宿泊棟も大広間も。物置まで再現されていました。
そして釣師の街並み。
お隣もご近所もそっくりそのまま復元されています。
途端に何かがこみ上げてきました。
涙が止まらなくなりました。
嬉しい涙でもなく、懐かしい涙でもなく、悲しい涙でもなく、悔しい涙でもなく、何と言ったら良いのでしょう。
強いて言えば、そのすべてが混じり合ったような、自分でも不可解な涙です。
ここで生活をしていた。
多くのお客様に支えられて、女将をしていた。
女将の仕事は、楽しくて私の性にあっていた。
リピーターのお客様が多かったので、お客様と言うよりも親類の人みたいだった。
ほんとうに良いお客様に恵まれていた。
釣師港に上がった魚は、日本一おいしかった。
毎日、お客様のお膳のおこぼれが食べられて幸せだった。
娘の病気と死。それも含めて私の大事な人生の場だった。ここで過ごしたことが、宝物だ。
次々と頭に浮かんできて、一瞬で消滅したこの町がとても愛おしく思えた。
ちょっと涙ぐみながら、しんみりと街並みを眺めた。
「あのなぁ、ほら、ここにあったべ?知らねが?(知らないか?)」
静かな大会議室で、大声ではしゃいでいるのは、もちろん、あの人です。
「昔は、砂鉄を取っていたんだぞ。塩田もあった。知ってるべ?」
若い町職員をつかまえて、昔の事を聞いています。
あなたは、74歳です。
あなたが子供の頃と言ったら、70年も前のことです。
30代の若い職員の人が知っているはずないでしょ!
ほら、困った顔をしてますよ。
一緒に行こうと誘ったのが、ご近所の佐々木さんで良かった。
佐々木さんは、釣師生まれなので昔のことをよく知っていて、おっとっとの話し相手になってくれ
ました。
おっとっとは、しんみりと思い出に浸るような場所には、向いていないのだと改めて再確認です。
1月9日から14日まで、ここで樹木や砂浜などを作って完成させるのだそうです。
復興推進課の皆さんが、一生懸命に作っていました。
無くなった街並みを再現し残すことで、新地町の震災のことが後世に伝わります。
地震の時は、まず、なにをさておいても避難すること。
そのことを未来に伝承していきたいです。伝承こそ、最大の防災です。
家に帰ってきたら、暮に活けた白梅が、玄関の棚の上でほころんでいました。
春遠からじ。
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明けましておめでとうございます
http://asahikanok.exblog.jp/29072011/
2018-01-01T12:32:00+09:00
2018-01-01T17:53:44+09:00
2018-01-01T12:32:34+09:00
asahikanokami
新地町の人々
三日坊主にならないようにしないと!
「わぁっ!寝坊した!!」
初日の出の撮影に出かける予定だったのに、目を覚ました時間は、6時50分。
なんと、日の出予定時間だったのです。
寝ぼけているとおっとっとを起こして釣師浜に急ぎました。
すでに初日は昇り始めていて、すっかり顔を出しています。
浜に急ぐ私たちの車とすれ違うのは、初日を拝んで帰り道のクルマ。
運転しているのがほとんど顔なじみの人で、寝坊したのがバレバレと見えて、みんな笑って手を振ってすれ違います。
元旦からかっこ悪いなぁ・・・・・。
それでも良いこともありました。
みんなが帰った後なので、駐車場がすいていてどこにでも止めることができました。
まずは、初日を拝んで撮影開始。
風もなく、快晴でとても良い
元日です。
浜辺ではたき火がたかれていました。
まだ残っている人たちが、思い思いにたき火を囲んで談笑をしています。
ここには、仮の慰霊碑があります。
毎月全国から集まってビーチクリーンをしてくださっているリバイバルFの皆さんが作ってくださいました。
新地町には、手を合わせる慰霊碑がまだ無いのです。
せめて、ここで手を合わせてほしいと、流木などで作ってくれました。
その慰霊碑も間もなく7年がたち、だいぶ痛んできています。
慰霊碑に手を合わせて、テントを張って温かい飲み物をサービスしてくれているリバイバルFの皆さんの所に向かいました。
途中に復興フラッグが建っていました。
これの話を書くと長くなるので割愛しますが、復興を願ってずっと掲げてくれているリバイバルFの皆さんの思いが詰まった旗です。
テントで、アツアツの玉蒟蒻とホッカホカの飲み物を頂き、冷えた体が温まり嬉しかったです。
そして、今年最初の私たち夫婦のツーショットです!
釣師漁港に戻って安波津野神社に初詣。
風がないのに波が荒くて、堤防を越してくるのを見た瞬間に、体がこわばりました。
あの日がよみがえります。
時々、ちょっとした瞬間に、あの日がフラッシュバックします。
でもね、と思い直しました。
あの日があったからこそ多くの人との出会いがありました。
そう思うと、たとえ辛い思い出であっても、それもすべて私の大切な人生です。
誰のものでもない、大事な私の宝物の体験です。
何はともあれ、こうして夫婦で元気に2018年の第一歩を踏み出すことができたのは、幸せという事です。
さて、いつまで続くかわからないブログですが、まずは、2018年の第一回目です。
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ダイアモンドプリンセスの旅5(金でできた男)
http://asahikanok.exblog.jp/25348033/
2016-06-22T21:57:00+09:00
2016-06-24T23:20:01+09:00
2016-06-18T17:38:03+09:00
asahikanokami
私のこと
旅の途中で海外に行くので、海外寄港地に入港する前に、日本での最終寄港地で出国手続きが必要でした。
4日目は、朝起きたらすでに沖縄港に入港していて、朝食後は沖縄観光でした。
港に戻ったら、そこで出国手続きが待っていました。
パスポートの提出や、台湾への入国申請などを終えて、船に帰ってきました。
船の入り口でも、セキュリティチェックがあります。自分の手荷物と、お土産をセキュリティチェックの機械に通して、人間も、空港にあるようなチェックを通ります。
みなさん、すいすい通って行きます。すると後ろのほうで
「ビィー」
と警告音が鳴りました。後ろを振り返ると、警告音が鳴ったのは、おっとっとでした。
「あれ・・・・。何かなぁ。ポケットには何も入ってないし・・・・」
大慌てで、ポケットをひっくり返して見せています。
「あ!帽子だ!帽子の金具だ!」
帽子を脱いで通っても警告音がします。
「ベルトの金具かな?」
ベルトを外しても警告音がします。
どんどん焦っているのが手に取るようにわかります。汗が尋常でないぐらい噴き出しています。
「服を脱ぎましょうか?」
おっとっとの言葉に、検査員が大笑いして
「ノーサンキュウ。プリーズ」
と通してくれたのでした。
汗をふきふき
「俺の体は金でできているからなぁ」
などと、わけのわからないことを言いながら、検査所を後にしたのでした。
それにしても、時計もしていないし、アクセサリーの類は持っていないおっとっとに、なぜ警告音が鳴ったのでしょう。
時計もしていて、アクセサリーもしていて、靴にも金具がいっぱいついている私がスルーできたのに、不思議です。
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