朝日館の女将のてんてこ舞日記


東日本大震災で被災した小さな旅館の女将の日々
by asahikanokami
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カテゴリ:避難生活( 119 )


我が家の建設状況

「ブログ読みました」
と言われる度に、これ以上小さくなれないほど小さくなって
「すみません・・・・・・更新していなくて・・・・・」
と言っていました。
だが(などと威張ってどうする、私!)いよいよ満を持して(大げさだな)更新することにしました。というより、更新しなきゃと思いました。

ブログの書き方を忘れる程のご無沙汰です。申し訳ありません。
まずは近況のご報告。
あちこちで被災体験を語る活動は、たぶん・・・・260回は超えたと思います。
口演依頼を頂けることは、本当に嬉しいことです。いつも、楽しみにして出かけていきます。
いろいろな人との出会いは、生きていてよかったという思いの確認になります。ありがたいことです。

東北お遍路は、青森から福島までの四県で120箇所近くのポイントを応募していただきました。
その応募していただいたポイントが、千年先まで語り継いでいくポイントとして、本当にふさわしいのか、その場所に出かけて行って、調査をしています。
すでに三分の二ぐらいの調査が終わりました。
そして今は、学識経験者の方を交えて、巡礼地創生委員会を開き、最終ポイントを決定するところまで来ています。
今年度中には、きめたポイントを地図に落とす作業をして、地図を完成させたいと思っています。
地図が出来上がったら、それを持って巡礼をしていただけます。

エコたわし編み隊は、今年の3月に、一旦活動を休止しました。
昨年末までに、高齢者支援住宅や、公営支援住宅が完成し、半分以上のおばあちゃんたちが仮設から引っ越していきました。会員が集まってくるのが難しくなったので、一度休止をし、このあとの活動については、全員が仮設から出て、新しい生活が落ち着いた頃に、もう一度考えようということになりました。
とりあえず、同窓会はしましょうと決めました。

今、小川公園仮設は、6割が空家になっています。
公営の住宅に移った人、自宅が完成した人が引っ越していきました。
新居でお正月を迎えたいと、代替え地は、今、建設ラッシュです。年末には、随分と空家が出ることでしょう。

我が家も、おかげさまで、12月15日に完成、22日に引渡になります。23日に大きなものを引越しさせ、1月いっぱいかかって、小物を引越しさせたいと思っています。

アトリエΣの石川社長が、とても素敵な家をデザインしてくれました。細部まで、彼のこだわりが満載の家です。施工業者が、頭を抱え、大変な思いをしながら建設しています。大工さんも、左官屋さんも、内装屋さんも、異口同音に
「いつもハウスメーカーの仕事ばかりだから、こんな大変な仕事は、したことがない。でも自分でいろいろ工夫したり、考えたり出来て楽しかった。久しぶりに達成感を感じた。家が完成したときに写真を撮りに来ます」
と言ってくれました。
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一階の窓が二つあるところが寝室です。その左隣は、お友達にとまっていただけるように作った和室です。二階は、息子の部屋です。
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玄関です。スロープで上がるように、外構とスロープの工事中です。
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石屋さんが、外構の石積みをしていました。
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コンクリートの四角い場所に、ウッドデッキができます。
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サッシ屋さんを泣かせた、三角窓と丸窓。

by asahikanokami | 2014-11-29 12:36 | 避難生活

地鎮祭

毎日の忙しさに追われて、ずっと更新しないままのブログでした。
なにしろ、被災のお話をしに、あちこち飛びまわっていて、その回数は200回を超えました。

近い所や昼の口演は、日帰りでも十分なのですが、遠かったり、夜だったりすると宿泊が伴います。
そうなると、二日間拘束されます。

被災した時に、多くの方に支援していただいたお礼にと思って活動していますが、だんだん体力が持たなくなってきています。
できる限りお断りせずにと心がけているのですが、流石に辛い日もあります。

8月からは、少しセーブをしようかなと思っています。断ることも必要かなと・・・・・。

さて、待ちに待った我が家の地鎮祭をしました。
高校の同級生の(株)アトリエΣ社長石川久さんに、設計をすべてお願いしました。
「この予算内で好きなように建てて」

彼は笑って
「どんな家になってもいいの?知らないよ」
と言ったけど、私たち家族は、彼の才能を知っているのです。朝日館の新館は彼の設計でした。

石川さんの設計した家に住みたい。
これが、うちの家族の一致した希望でした。

なかなか出来上がらなかった設計図。あまりに素晴らしい家になってしまい、予算を大幅にオーバーしてしまいました。それから数ヶ月。どこを削るのか、どこを残すのか、石川さんが苦悩し、考えに考え、コンセプトそのままで、予算内の設計が出来上がりました。

そしてやっと地鎮祭です。
四角の土地270坪の対角線上の15度ほど斜め線上に家が建ちます。
真正面に、新地町のシンボルの鹿狼山を見ながら生活できるようにという、石川さんのアイディアです。

お部屋は、5つ。1階に、私たちの寝室と客室とリビング。2階に息子の部屋と私の作業室。
今までの旅館から比べると、小さな、小さな家です。
お風呂は、鹿狼山を見ながら入ることができるように、戸を開け放すと半露天風呂風になります。湯船は陶器なそうです。

庭も彼がデザインしてくれました。客室から見るお庭は素敵です。
完成は、12月中頃。年内に引越しできそうです。

おっとっとは、毎日、嬉しそうにカメラを抱えて現場に通っています。大工さんの邪魔にならないといいのですが。
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by asahikanokami | 2014-08-01 18:43 | 避難生活

あの日からみんな、同士

昨日は、仮設の集会所でエコたわし編み隊の活動がありました。
この仮設から、孤独死を出したくないという思いで始めたエコたわし編み隊の活動も2年が過ぎました。

同じ地区に住んでいて、顔や名前は知っていても親しくお話したことのない人達と、この活動を通じて仲良しになれました。中には、顔も知らなかった人もいます。今ではすっかり仲良しです。

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いろいろな世代の、いろいろな人。
その人のことをあまり知らないと諍いが生まれます。けれど、とても良く知れば、仲良くなれます。
知らない人から自分が嫌なことをされると、許せなくても、よく知っている人だと我慢できるし、気にもなりません。人間の心って不思議です。

おかげで、この仮設は、争いごともなく、みんな穏やかに暮らしています。
エコたわしの活動を始めてよかったと、心から思っています。

毎週、月曜日に集まって、エコたわしを編み、それを売ってまた毛糸を買って編む。余剰金は、お茶菓子代。
編み物のあとは、みんなでお茶を飲みます。
楽しいおしゃべり。編む手も良く動きますが、口も良く動きます。

最近は、といいますか、最近になってやっと、あの日の話が出てくるようになりました。
そのあとのことも。
車で、津波に追われて半分流されながら、瓦礫にひっかっかってやっと助かった話。
一緒に避難しようと誘ったのに、寒いからと断られ、その結果、亡くなっってしまった隣人への悔い。
その後、子供のところに避難したけれど、子供には子どもの生活があって、結局は避難所に戻った話。
などなど。

そして思います。
あの時、被災した多くの人達。全ての人が、何かを失いながらも、それでも必死に生きたこと。
届いた支援物資を、分け合い、一緒に頑張ったこと。
あの時から、被災した誰でもが同士になったこと。
だから、これからも支えあって、生きていきたい。

高齢者支援住宅と公営住宅が完成し、昨年末から引越しのトラックが、仮設の通路に止まっていることが多くなりました。
あちこち、空き部屋が目立ちます。
今日も一軒、引っ越していきます。

仮設が空くということは、新しい生活が始まった印。
喜ばしいことですが、寂しくもあります。

我が家は、造成工事が大幅に遅れていて、まだこんな有様。

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なんとか5月頃には、引っ越したいものです。

by asahikanokami | 2014-01-21 11:27 | 避難生活

東北お遍路のご報告

東北お遍路の現在の様子をお知らせいたします。

東日本大震災の後、雇用が減り、人口の流失が止まりませんでした。
また、被災地に行ってみたいけれど観光で行くのは気が引けるという声も聞かれました。
さらに、東北では、まだまだ何も復興が進んでない時期に、ほかの地域との、震災に対する温度差も感じました。

これは、もう、多くの人に被災地を見てもらうしかない。来てもらうしかない。多くの人を被災地に呼び込むことで、地域おこしをしよう、風化を防ごうということになり「東北お遍路~こころの道~」プロジェクトが立ち上がりました。

2011年9月のことですから、あれから2年半の月日が流れました。

被災地に公募でお遍路もポイントを作り標柱を立て、多くの人に廻ってもらうというこの事業は、簡単に進むと思っておりました。
それが、思いのほか簡単ではありませんでした。
被災地四県が手をつなぐというプロジェクトは、今までありませんでした。たぶん「東北お遍路」が初めてだと思います。

四県にまたがっているために、会議をしても思うように役員が集まれません。また助成金を申請しても、各県ごとならいただけても、四県にまたがるともらえないのです。資金が少ないので、役員は自腹で活動しています。

それでも、それぞれに熱い思いがあって、お遍路道ができたらきっと地域活性に繋がると信じて活動しています。

今年は、やっと二本の標柱が経ちました。一本は「新地町龍昌寺の釣師観音」
ここは、津波で流されたお墓を探し出し、掘り起こして慰霊のモニュメントを作りました。

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もう一本は「相馬市津神社」です。
ここは、昔から「津波の時はここに逃げたら助かる」と言い伝えられている場所です。今回も百人ほどがここで助かりました。
天皇、皇后両陛下が被災地慰問においでになった時に、相馬市長がその話をしたら、ぜひそこに行きたいとおっしゃったそうです。警備の関係で実現しませんでしたが、何度も
「ここから津神社は見えませんか?」
とお聞きになったそうです。

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11月には、青森県の八戸市から岩手県の岩泉町まで、公募のあった場所を調査してきました。勝手に建てるわけにはいかないので、推薦者や地元の方、そしてそれぞれの自治体にお話を聞きに行きました。

中でも、八戸市の蕪島神社には、ぜひ建てて欲しいと言われました。
今は、道が繋がっていますが、かつては島だった蕪島。
右と左から津波が来て、鳥居の前でぶつかり大きな水柱が上がったそうです。
誰もが鳥居が流されたと思ったのに、津波が収まったら鳥居は無事だったそうです。
前日まで6万羽近い海猫がいたのに、その日の朝は一羽もいなくなって不思議だと思ったら津波がきたそうです。

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岩手県の野田村でも、村長さんにぜひ建てて欲しいと頼まれました。
愛宕神社の大鳥居は村有の土地なので、そこに建てて欲しいと言われました。
多くの遺体が、そこまで流れ着いたそうです。慰霊のためにもぜひと言われました。

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来年は、この二箇所には標柱が立つと思います。さらに、宮城県の山元町や石巻市などにも建てたいと準備中です。

点が線になり、一本の道が出来上がり、その道を多くのお遍路さんが歩いてくれたなら、地域の復興にはずみが出て、また、被災地とお遍路さんとの絆もできると思います。

よく間違われるのですが、東北お遍路は宗教とは無関係です。
これから先もずっと語り継いでいきたい、津波被災のストーリがある場所をポイントに選んでいます。
支援してくださる企業や、応援して下さる個人会員も募集しています。
どうぞ「東北お遍路~こころの道~」を応援してください。

by asahikanokami | 2013-12-25 12:23 | 避難生活

福島県に原発ができたわけ

ずっと更新もせず、コメントのお返事も書かず、ここを覗きにもこず、無責任極まりない状態でした。
申し訳ございません。
フェイスブックに書いていると、それだけで満足してしまって、ブログはいいかなぁと思ってしまっていました。
でも今日は、やはりブログに書かなきゃと思っています。

昨日、東北学院大学と新地町教育委員会の共催で「歴史としての東日本大震災in新地」というシンポジュームが開催されました。
私もパネラーとして参加し、紙芝居も披露することができました。

その中で相馬市史を研究しておられる佐々木秀之先生の講演を聞いていて、背中が寒くなりました。
これは絶対に忘れてはいけない。多くの人に知って欲しい。
そう思ったので、ここに記録しておこうと思います。

明治38年に、それまで自由に作っていた塩が、塩専売法の公布で勝手に作れなくなりました。
塩田は政府の管理下におかれました。
しかし、太平洋戦争の勃発により、塩不足になったことで、昭和17年には自家用製塩製造許可法ができて、自由に作ることができるようになります。

それに伴い、福島県沿岸でも盛んに塩が作られることになりました。
相馬市や新地町などでも相馬塩業という会社ができて、製塩業をはじめました。

戦後、相馬塩業の社長の釘本さんが福島市長になったことで堤康次郎さんに代わります。(相馬塩業といっても、相馬市や新地町以外の人が経営していたんですね)
財閥の手に渡りました。
しかし昭和24年に日本専売公社が発足。塩は専売となりました。

相馬塩業は経営不振に陥り昭和33年に事業が打ち切られました。
同じようなことが、福島県沿岸の市町村でも起きました。

その後、塩田や製塩工場用地は、いろいろな会社の手を経て、東日本興業の所有になり、やがて相馬共同火力発電の手に渡り、火力発電所が建設されました。

新地町は、原発建設に反対したので火力発電所になりましたが、他のところには原発が建つことになったのです。

昭和38年ごろの新聞を見ると、原町市(現南相馬市)の当時の渡辺敏市長などは、原発建設に手を上げていたことがわかります。

福島第一原発の場所は、もともとは旧陸軍の飛行場だったところに、国土計画興業が塩田と製塩工場を造った場所だったそうです。

佐々木先生は最後に、こんなふうにおっしゃいました。

「今、被災した沿岸は、国や市町村が買い上げ、海浜公園になる計画が進んでいます。それはすばらしいことです。しかし、一つ落とし穴があります。もし、市町村が経済的な理由でその場所を一括して売ったなら、何が建つかわからないということです。歴史をしっかり学び、次世代に伝えていくことが大事です」

国は、自分たちの都合で法律を作り、塩を専売にして利益を得て、塩が足りなくなると法律を変えて自由にし、また、利益を得るために法律を改正して専売にして多くの会社をつぶし(会社をつぶすことが目的でなかったとしても)てきました。
お米もそうです。TPPが決まれば、農作物のみならずいろいろなものに影響が出ることでしょう。

被災地に造られる広大な公園。そして不必要なほどの高さの堤防の建設。
二度と、これらを原発建設に利用されないように、しっかりと見張っていこうと思います。

by asahikanokami | 2013-12-15 10:43 | 避難生活

紙芝居祭り

いっぱい書きたいことがあるのに、書く暇が無い日が続いています。

何が忙しいって・・・・まず、毎週月曜日は、エコたわしの活動日。編む毛糸を仕入れ、終了後のお茶会の用意をし、注文があれば荷造りして発送。なにせ、私はOKB(小川仮設ばばぁ)の雑用係なのです。

それから、東北お遍路。お遍路のポイントを調べると言う仕事があります。ネットでポイントの募集をしたら、98箇所も集まりました。そのポイントが、本当に東北お遍路のポイントにふさわしいのか、精査が必要なのです。

そして新地町の復興のワークショップや会議。私は、都市計画課と復興推進課と教育委員会の三箇所の委員になっています。といいますか、にしていただきました。
自分の住んでいる町、住んでいた場所が、どのように変わっていくのか、変えていくのか、かかわっていきたいと思ったからです。

そして、その上、震災体験をあちこちで語らせていただいています。数えたことが無いので、正確な数はわかりませんが、二年半で百ヶ所を越える場所で語らせていただきました。

その上さらに、紙芝居祭りにも参加したのです。
これは、放射能で苦しんだ過去を持つ広島から、同じように苦しんでいる福島に、元気を届けようと紙芝居100本を作って贈ってくださっています。
すでに80本近い紙芝居が届けられました。

東北街物語紙芝居化100本プロジェクトさんから届いた心のこもった紙芝居。これを一堂に集めてお披露目をかねた紙芝居祭りを9月1日に開催しました。
相馬市の紙芝居チームが中心になって、南相馬市と新地町が一緒にお手伝いをしました。といっても、新地町で準備に参加したのは私一人です。

当日は、民話の紙芝居の「先祖からの宝物の部屋」と、郷土の偉人伝の紙芝居の「郷土の誇りの部屋」と、震災を伝えたいと作られた紙芝居の「未来に語り継ぐ部屋」の三会場で、それぞれ10の作品を読みました。

また、ホールでは紙芝居を使った朗読劇、廊下ではゲリラ紙芝居なども上演されました。

私は、「未来に語り継ぐ部屋」の責任者でした。
震災紙芝居は、重い内容が多く、はたして、みんなが聞きに来てくださるか心配でしたが、一番多く観客が入ってくれました。中には泣いてくださる人もいて、やってよかったと、読んでいる私のほうも泣きそうでした。


そして今回は、私が文を書いた「命の次に大事なもの」をおっとっとが読みました。私が「避難所物語」という、避難所での知的障碍者の方の話の紙芝居を読むことになったので、おっとっとの出番になりました。
横浜からおいでくださった西原和子さんという方がバックミュージックをつけてくださったので、おっとっとの初舞台が引き立ちました。

夫婦紙芝居???
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会場にはたくさんの客様
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フィナーレはものすごい熱気
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福島の有名な昔話の語り部の横山幸子先生と川辺洋子先生がきてくださり、その前で紙芝居を読むのに緊張しました。
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by asahikanokami | 2013-09-21 09:12 | 避難生活

仮設の迎え火、送り火

元住んでいた釣師地区では、昔からお盆の13日には迎え火を、16日には送り火を、自宅前で焚く風習がありました。

仮設に住むようになって、最初のお盆は、多くの人たちの新盆でした。
仮設は、多くの人が住めるように、通路を狭くしてびっしりと建物が建っています。

その前で送り火や迎え火を焚くのは危険です。
でも、新盆だから、迎え火を焚いて亡くなった人の魂に帰ってきてもらい、送り火を焚いてまた帰っていってもらいたいと、多くの遺族が願いました。

行政から
「本当は、仮設内で火を焚くことはできないのだけど、見なかったことにします。そのかわり、火の用心だけは厳重にしてください」
といわれ、新盆の送り火を焚きました。

そして今年は、仮設で迎える三回目のお盆です。

いつものように、通路で迎え火を焚き、花火をし、スイかを切って食べました。
なんだか今年は、まきの数が多くて火に勢いがあります。こんなに大きな炎ですから、ご先祖様も迷わず我が家に帰ってきてくれたと思います。

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火を焚きながら、空に向かって
「こっちが我が家ですよ。釣師に行ってもお家はないのよ」
と娘に語り掛けました。

迎え火が終了してから
「今年は薪が多かったね」
と言ったら、おっとっとが
「あっ!」
と大声をあけました。どうやら送り火の分まで焚いてしまったみたいです。
ええっ・・・・・・送り火はどうするの・・・・・

「大丈夫だ。二束残っていた。なぁに、盛大にご先祖様をお迎えして、ひっそりと送れば良いべ」
と、いかげんな自治会長(おっとっとが自治会長です)

迎え火当日。いい加減な自治会長をサポートしている役員の人たちが、あちこち手配して薪が集まりました。
いつもよりも大きな炎で送り火がたかれました。

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今年の末には、全員が代替地を取得します。そしたら来年には自宅建設ができます。

仮設での迎え火、送り火は、今年が最後になることでしょう。

行く夏を惜しむように、マイ缶ビールを持ち出して飲み始めるおとうさんたち。
いつまでも立ち話をしているおかあさんたち。

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夜がゆっくりと更けていきました。

by asahikanokami | 2013-08-22 13:41 | 避難生活

伊達と相馬の戦い

先月27日に新地町の相馬共同火力新地発電所内のわくわくランドで、「伊達と相馬の合戦」が行われました。

実はこの日は、相馬野馬追い祭りの初日なんです。
野馬追いの出陣式を見た後、観光客は海に流れてきて、潮干狩りや海水浴を楽しむのが例年のことでした。

しかし、震災後は海で遊べなくなりました。

そこで、出陣式の後、何かイベントはできないかと、相馬と新地の若者たちが立ち上がりました。
新地町は、その昔、相馬藩と伊達藩が、陣地を巡って争ったところ。
現代でも、綱引きをして友好的な戦いをしようじゃないか!!

綱引きだけではなく、合戦に参加する人全員が合戦に参加できるようにと、いろいろな趣向が凝らされました。

まず、受付で伊達藩(イメージカラーは黒)の応援か、相馬藩(イメージカラーは赤)の応援か決めます。
イメージカラーの鉢巻きを締めて、合戦の参加券をもらいます。これで準備はオーケー。

いよいよ合戦が始まりました。

まずは、各藩の応援団長にまつわる紙芝居合戦。
伊達藩は、新地町に伝わる昔話から、応援団長は「鹿狼山の手長明神」です。
一方、相馬藩は丹下左膳です。小説の中では丹下左膳は、相馬藩の武士だったんですね。町おこしにと、相馬市磯辺に「丹下左膳の碑」が建てられました。
ギネスに登録されるようにと、大きな碑を用意したら、建設予定地が県立公園だったので高さ制限がありました。
そこで、しかたなく深く埋めて、高さ制限をクリアしました。
それが幸いして、今回の津波にもびくともしませんでした。
その紙芝居を、碑の建立に尽力なさった佐久間さんが読みました。
新地町の「鹿狼山の手長明神」は私が読みました。
合戦の結果は9対1で伊達藩の勝ちでした。やったね!(私は紙芝居を読んでいたので写真はなしです)

メインは、やはり綱引きです。
小さいお子さんたちはかわいかったです。

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圧倒的に強かったのは、相馬消防署のメンバーです。合戦というので、ヘルメットを兜にして参加してくれました。

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相馬藩のボランティアグループが対戦した時に、人数を2名増やしたのに、負けてしまいました。

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そして何と言っても、一番盛り上がったのは、伊達武将隊のみなさんです。
朝早くから相馬市内でチラシを配ってくださったり、一日中笑顔で参加者との写真撮影におうじてくださいました。
さすが、自らを「おもてなし武将隊」と名乗るだけのことはあります。正宗様も必死に綱を引きます。

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さて、綱引き以外の合戦はというと、まず射的合戦。
お互いに、敵陣の武将めがけて鉄砲を撃ちます。

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それから、ちびっこに大人気だったのはスーパーボールすくい合戦。
スーパーボールの大きさや色で点数が入ります。

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巨大だるま落としもありました。
こちらは、なかなか難しかったようで、成功した人は少ないようでした。

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そしてフィンガーフード合戦。
相馬と新地のおいしいものが、一口づつ乗っている紙皿を、おいしい藩のほうに入れます。

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さて、すべての合戦が終了して、僅差で相馬藩が勝ちました。

私は、室内でエコたわしの並べて、毛糸代の支援をお願いいしていました。(わくわくランド内では物品販売ができないのです)
ご寄附200円に対して、お好きなエコたわしを一つお礼にさし上げました。
室内にいたので、外で歓声が聞こえるたびに飛び出して、写真を撮りました。
時々しか見ることができませんでしたが、参加してくださった人たちは思いっきり楽しんでいるように見えました。

この日の入場者は、500人ぐらいだったそうです。
何よりも、相馬市と新地町の若者が、力を合わせて大きなイベントをしたということが、一番有意義でした。

by asahikanokami | 2013-08-01 12:55 | 避難生活

あらまぁ!7月も終わりだわ!!

あっという間に、6月が終わり、7月も明日を残すのみになってしまいました。

その間、何も更新しなかった私。すみません・・・・・・・・・。

もう!忙しい!忙しい!と、毎日を過ごしています。
いろいろな復興計画のプロジェクトに参加したり(三つも)あちこちに呼ばれて、紙芝居を読んだりと、ほとんど家を留守にして飛び歩いています。

その間にも、新しい家を建てる予定の代替地の造成も進んでいます。家のおおまかな設計図も出来上がりました。おっとっとは、家が建つのが待ちきれないらしく、一日おきぐらいに造成がどこまで進んだか見に行きます。

11月ごろには造成が終了する予定です。
家が建つのは来年の春ごろでしょうか?それでも楽しみです。

新地町では、100坪を30年間、無償で貸してくれるそうです。100坪よりも広い土地がほしい人は、100坪を超える分を買うようになります。私たちが希望している団地では、ほとんどの人が100坪以上を希望しています。希望通りの広さの土地をもらえるのは、ほかの市町村では考えられないことです。
どこでも、100坪までとか、場所によっては50坪までなどと制限があるのが普通なんだそうです。

新地町は、町民の中から
「困っているときはお互い様だから」
と、持ち山や畑を提供してくれる人が相次ぎました。
そのおかげで、新地町の被災した人全員が、仮設を出てこの次に住む場所が決まりました。

我が家の予定地。
今年の一月に、山の木が切り倒す作業が始まりました。

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3月には、ほとんどの木が切り倒されて、運び出されていました。
切った材木を、家を建てる材料にしたら良いのにと思ったら、原発事故の影響で使えないのだそうです。
機械で、細かいチップにして運んでいました。もったいない話です。

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6月には、山がだいぶ低くなっていました。
この山にも、たくさんの動物や鳥が住んでいたことでしょう。
私たちのせいで、住む場所を奪われて、山から追い出されてしまいました。
本当に申し訳ないと思います。いつも、造成地を見学に行くときには、手を合わせて
「ごめんなさいね」
とあやまります。

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7月になったら、どんどん低くなっていた土地が、少スピードが鈍りました。
どうやら、我が家のあたりは岩盤のようです。
地震の時に揺れないで済むかなと嬉しい反面、庭に木を植えても根を張ることができるのか心配です。

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左の土の山のところあたりが、たぶん、我が家が建つ予定地です。

by asahikanokami | 2013-07-30 20:33 | 避難生活

除幕式

コメントのお返事も書けないでいます。ごめんなさい。
今日は、エコたわしの活動日。明日は、ガーデニング教室と取材。あさってには、まとめてお返事が書けるでしょうか???それとも?????

さて、昨日は東北お遍路のポイントの第一号標柱の除幕式でした。
雨が降ったらどうしようと、そればかり心配しておりましたが、良すぎるほどの上天気でした。

東北お遍路プロジェクトの新妻代表があいさつをして、町長さんや北畑墓地会の会長さんや龍昌寺ご住職の祝辞があり、私が経緯説明をしました。

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なぜなら、ここをポイントにと推薦したのは私だからです。

あの日。すべてを飲みこんで行った津波は、自宅や旅館だけでなく、お墓をも連れ去って行きました。
3月20日。お彼岸の中日に墓地に行くと、そこは瓦礫と砂と泥しかありませんでした。
おっとっとと二人で、ずいぶんと探しましたが、お墓を見つけることはできませんでした。

何もなくなった場所に、お花とお線香を手向けました。
悲しくて涙がこぼれました。長いこと手を合わせても、空しくて、空しくて涙が止まりませんでした。
お墓の中にあったはずの、娘の遺骨はどこに流されたのでしょう。
「海に散骨したと思うことにするべ」
と、おっとっとは言いましたが、それでも空しさをどうすることもできませんでした。

その年の7月。墓地会の皆さんとお寺さんとで、北畑墓地の墓石を探し出して、すべてを龍昌寺に運んだという話を聞きました。
急いで行って見ると、多くの墓石が並んでいて、その中に我が家のお墓もありました。
行方不明の娘と再会したような気分で、嬉しくてお墓に抱き着いて撫で回しました。

その墓石をすべて積み上げて、その上に観音様が祭り「釣師観音」と命名されました。
新しくお墓を作りましたが、ここを参りすると先祖や娘に会ったような気がします。

また結婚して新地に住み始めたころ、慣れない生活に悪戦苦闘していた時に、暖かく励ましてくださったご近所の方で、先にお空の上に行かれた方たちの笑顔に出会う気がします。

復興には、道路も住宅も必要ですが、心の復興も必要だと思っています。
我田引水になるかもしれませんが、東北お遍路というこのプロジェクトは、改めて、被災者にとってものすごく力になっていく事業だと実感しました。

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ここが第一歩。
そして第二歩、第三歩と道が繋がって行ったなら、被災者とお遍路さんと繋がって、地域の復興の何よりの推進力になると確信します。

昨日の青空のように、すべての人の心が雲一つなく晴れ渡るように願って、次の一歩に繋げたいと思います。

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by asahikanokami | 2013-06-10 11:03 | 避難生活