朝日館の女将のてんてこ舞日記


東日本大震災で被災した小さな旅館の女将の日々
by asahikanokami
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熊先生

結婚して間もなくの頃
「ごめんください」
と言う声がしたので出て行ったら、舅の中学時代の同級生の校長先生が玄関に立っていらっしゃいました。

その方は舅の親友で、舅が一番信頼し、尊敬している方でした。そして、おっとっとの中学時代の恩師でもありました。

「荒熊先生、どうぞおあがりください」
と私が言ったとたんに、そのいかついお顔がクシャッと崩れて
「あっはっはっはっは!美保子さん、熊は私のニックネーム。私は荒 明です」
とおっしゃったのでした。

穴があったら入りたい。私は顔を真っ赤にして平謝りに謝りました。
「なーに、そんなことかまわない。今、学校の子供達は俺のこと『かぼちゃ校長』って呼ぶんだぞ」
と笑いながらおっしゃったのでした。

その濃いひげあとから、旧制中学時代についたニックネームが『熊』だったのです。舅やおっとっとがいつも『荒熊』と言うので、てっきりそういうお名前だと思ってしまった私。今思い出しても、申し訳なくて汗が出ます。

荒先生はお顔に似合わず優しくて、楽しくて、信仰深い方でした。私のこともまるで自分の家の嫁のように
「美保ちゃん、美保ちゃん」
と呼んで可愛がってくださり、娘も自分の孫のように思ってくださいました。

娘が亡くなった時には、悲しみのあまりに寝込んだとおしゃって、わざわざ、高野山に娘の戒名を納めにも行って下さいました。

私が福島民報新聞の『民報サロン』と言うコーナーにエッセーを連載した時には、添削していただいたりもしました。私にとっても人生の恩師でした。

舅の痴呆が進むのと時期を同じくして、先生もまた体調を崩されて寝たきりになってしまわれました。舅が亡くなった時、ご家族から、悲観するといけないから内緒にしてくれと頼まれて、先生にはお知らせしませんでした。

その荒先生が昨日、老衰のために亡くなられました。

先生は『相馬市民の歌』をはじめたくさんの学校の校歌などを作詞なさったり、また短歌や俳句などにもすばらしい才能を発揮されました。

今頃はきっと、いつも騒いでいてうるさかったので『ジャズ』と呼ばれていた舅と天国で再会していると思います。

「な~~んだ!ジャズ!!おまえ、先に来ていたのか」
「熊、久しぶりだなぁ」
そんな会話をしていることでしょう。

先生の訃報に、舅が亡くなった時と同じように悲しくて淋しくてたまりません。体中から力が抜けてしまい、何も手につきません。

熊先生、ありがとうございました。どうぞ安らかにお眠りください。ご冥福を心からお祈り申し上げます。ありがとうございました。ほんとうにありがとうございました。合掌。

by asahikanokami | 2006-09-29 22:04 | 我が家の日常 | Comments(2)

百本のひまわり

「ひまわりの花が200万本咲いているらしいよ。見に行かない?」
ってパートさんに誘われました。

「行く!行く!!」

さっそく出発。行き先新地町の西隣の宮城県丸森町館矢間。
車で20分ほどのところです。
http://www.marumori.net/osirase.htm#himawari

すご~~い!!
見渡す限りのひまわり!ひまわり!ひまわり!!
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しかも100円でつみ放題!

さっそくひまわり畑に入って切り取りました。お花は腰ぐらいの高さのミニサイズの種類です。お花の大きさも普通のひまわりよりも小さい。

夢中で切り取りました。車の後ろに積み込んで
「ちょっとがめつく取り過ぎたかな・・・・」
と心配したら係りの方に
「もっと、もっともって行っても良いですよ」
と言われてほっとしました。
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帰り道、川の土手に吾亦紅が咲いているのを発見。車を道端において、夢中で吾亦紅も取って来ました。
今日の収穫。ひまわりはざっと100本ぐらい。
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さ~~~て、これからが大忙し。パートさんのお庭の小菊も取ってきて、活け花。活け花。活け花。

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ふぅ~~~~う。心行くまで活けさせていただきました。
それでも、いっぱい残ったのでご近所や友人や妹にもおすそ分けして喜んでもらいました。

今なら朝日館は全館ひまわりだらけで~~す!!どうぞお越しくださいませ。

by asahikanokami | 2006-09-26 17:46 | 我が家の日常 | Comments(4)

弟が渡米

22日は我が家の墓参。23日は実家の墓参に塩釜まで行ってきました。

本当は平日に行きたかったのですが、弟一家がアメリカに行くことになり、その送別も兼ねて23日になりました。

弟とは5つ違い。

小さい時には物怖じしない私と違って、内弁慶でおとなしかった弟。

「子どもの頃を知っている人は、アメリカに住むって言ったら、あんたじゃなくて私だろうって思うよね。あんたがアメリカに住むなんて思わないよね」
って言ったら、弟が
「俺だって思わないよ」
と笑っていました。

ソ○ーに勤めている弟が、アメリカにある工場を任されることになり、夫婦で渡米。家も買ったそうで、弟の仕事に対する決意も感じて、あの泣き虫弱虫の弟が・・・・と思いました。

「で、アメリカのなんていう所なの?」
「アラバマのドーサンと言う田舎だよ」
「あんた、ピストル買うの?」
「そんなもの買わないよ。ドーサンはアメリカでは一番治安が良いんだよ」

ふ~~~ん。

弟よ、気をつけて行ってらっしゃいね。たった一人の兄弟がアメリカに行くというので、姉はちょっと淋しい気持ちです。

by asahikanokami | 2006-09-26 16:07 | 我が家の家族と親類 | Comments(2)

甥の結婚式

17日は甥の結婚式でした。

平成9年11月。癌の手術を終え、退院したばかりの娘と、姑と三人で土湯温泉に行ったことがありました。

その途中、アンナガーデンというところによりました。
丘の上の小さな教会。まるでおとぎ話の中のよう。

教会の中を覗いてみたら、翌日の結婚式の準備の真っ最中でした。
「中を見せていただけますか」
と聞いたら、快く中に入れていただきました。

ちょうど祭壇や参列者の椅子をお花で飾っているところでした。
ステンドグラスの前で娘が
「私、ここで結婚式したい。おばあちゃん、私、ここで花嫁になるからそれまで長生きしてね」
と言ったのでした。

目の中に入れても痛くないほど可愛がっていた孫娘のお願いに、姑は目を細めて
「その時はおばあちゃんが挙式の費用を年金から出してあげる」
と笑ったのでした。

それからわずか2週間もしないうちに、姑は脳溢血で倒れ二ヶ月の入院で、あっというまに天国に行ってしまいました。その2年後には娘まで後を追うように天国に行ってしまいました。

甥から招待状が届いて開けてみたら、挙式の場所はアンナガーデンの教会でした。
http://www.anna-g.com/

ステンドグラスの前。あの日と同じように祭壇は花で飾られ、参列者の椅子にもお花がありました。

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教会の扉が開いて新婦がお父様と手を組んで入ってきたた時、逆光で花嫁さんのお顔が見えなかったこともあり、おまけにベールをかぶっていたので、娘が入ってきたような錯覚を覚えました。


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不覚にも涙が止まりません。

厳かな中にも暖かい式が終了。式の最中は撮影禁止だったので、ほっとした顔のお二人を撮りました。

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この後、二人で教会の鐘を鳴らしたり、ライスシャワーがあったり、鳩を飛ばしたりして式が終了。

あいにくカメラのバッテリーが無くなって(朝にフル充電したのに、どう言う事なの!!怒)披露宴も撮ることが出来ませんでした。

披露宴終了後はお庭の大きなもみの木に、二人でスイッチを入れるともみの木の電飾に灯がともり、その瞬間に夜空に花火が打ち上げられるという素敵な演出。

バックの中に入れてきた舅、姑、娘の写真。
三人とも甥の結婚を一緒に喜んでいることと思います。

和徳君、彩子さん、おめでと~~~!!
いつまでも、いつまでもお幸せにね。

(教会内の写真はすべて式が終了後に戻ってきた時に撮りました)

by asahikanokami | 2006-09-20 14:13 | 我が家の家族と親類 | Comments(3)

豊かな人生とは

私は結婚するまでの二年間、岐阜県の各務ヶ原市にある紡績工場に勤めておりました。35年も前のお話です。

工場内の定時制高校の家庭科の教師のつもりで就職したら、もうひとつ仕事があってそれは寮母さんでした。

私の受け持ちの寮には、当時金の卵ともてはやされた中学校を卒業したばかりの女の子が100人いました。毎日、何かしらの事件が起こりました。

窃盗、万引き、喧嘩、自殺未遂、失踪、中には妊娠する人がいたり、傷害事件の被害者になる人がいたりで、警察に行くのもたびたびでした。

今思うと世間知らずの私が、良く二年も勤めることが出来たと思います。

寮では毎年一回、父兄会が開かれます。大抵は、我々が父兄の住んでいるところに出かけて行き、彼女達が元気なことを伝え、近所で来春卒業する人を紹介してもらうというものでした。

その為に、事前にテープレコーダー(ビデオはまだありませんでした。テープレコーダーも、テープはカセットではなくてリールに巻かれてました。古っ!)に、生徒一人一人の声を吹き込んでもらい、写真を見ながら声を聞いてもらうのです。

ある晩、その日の録音の順番になった生徒が
「先生に言っておきたいことがあるだけど・・・・・」
と話を始めました。

「隠しておいてもわかることだけど、実は、家のお母さんは韓国人なんです。

戦争中にお父さんと恋愛したんです。終戦になってお父さんが引き上げる時に、必ず迎えに来るからと住所を書いた紙を残して帰ってきたんです。

お母さんは、何度も手紙を書いたけどお父さんからは返事は来なかった。
それでお母さんはお父さんの住所を書いた紙を握り締めて、日本にやってきたんです。

でも、親戚も家族も韓国人の嫁を家に入れるのに反対でした。お母さんは家にも入れてもらえずに、家畜と一緒に納屋で生活していたそうです。

結婚に反対さたからといって、いまさら帰る事も出来ず、働いて嫁として認めてもらうしか方法がなかった。朝はお日様よりも早く起きて畑を耕し、夜は手元が見えなくなるまで働いた。

そして、私が生まれ、妹が生まれて、やっと嫁として認めてもらうことが出来たんです。

でも、私はずっとお母さんを恨んでいました。子供の頃は『朝鮮人、朝鮮人』といじめられました。お母さんさえいなかったら・・・とずっと思っていました。中学生になって、私・・・ぐれたんです。学校にも行かず、家にも帰らず、遊びまわっていたんです。

ここに来たのも、早くお母さんから離れたかったから」

そこまで話して、彼女は一つため息をつきました。

「でもね、先生。私が大人になって好きな人が出来たとして、家族も祖国も捨てて、住所を書いた紙一つ握って海を渡れるだろうか・・・・。

私のお母さんはすごい」

父兄会当日。私はどんなお母さんが現れるのか楽しみでした。
あわられたお母さんは、想像に反して小柄な方でした。

彼女の声のテープを聴いていただいた後、おせっかいかなと思ったのですが、彼女がしてくれた話を伝えました。

「そうですか・・・・そんなこと言いましたか・・・・」

おかあさんのひざの上に組んでいた日焼けした手の甲に、涙がポツポツと落ちました。

父兄会は午後からは宴会です。アルコールが入ったこともあり、歌が飛び出し、それにあわせて踊る人まで出ました。

するとあのお母さんがすっと立ち上がり踊りだしたのです。
その振りは日本の踊りとは明らかに違う振りでした。

手を広げ音楽に合わないことなど気にせずに優雅に踊るお母さん。

私は祖国を捨て、家族を捨て、どんな困難にあっても負けず、自分の信念を貫くことが出来るでしょうか。紙切れ一つを握って、言葉も習慣も違う所に、信じるもののために、身を投げ出すことが出来でしょうか。

豊かな人生とはどんな人生を言うのでしょう。

出世した人。名を成し功上げた人。または、資産を築いた人の人生はきっと豊かな人生と呼ぶのにふさわしいことでしょう。

でも、こういう人生もまた豊かな人生といえる。
若かった私は、おかあさんの踊る姿に涙しながら、そう思ったのでした。

by asahikanokami | 2006-09-09 22:00 | 私のこと | Comments(6)

あなたがいたから

私が朝日館に嫁いで来た頃、パートさんだったFさん。
パーキンソン病で寝たきりになっています。

以前は時々顔を見に行っていましたが、現在はもう誰が誰か識別できない・・・。お話も出来ない・・・。お見舞いに行くと、介護しているご主人が、お茶を出してくれたりして余計な手間を取らせてしまいます。ついつい疎遠になってました。

Fさんの家の前に車椅子を発見。Fさんが座っていました。
ディサービースの迎えの車を待っている所でした。

「Fちゃ~~~ん!!」
名前を呼んで見ましたが何の反応もありません。

そばに行って
「Fちゃん!元気だった?朝日館のみほちゃんだよ。わかる?」

すると首がコクリとしました。

そばにいたご主人が笑って
「ばあちゃん、ほんとうにわかるのか?この頃は俺のこともわからなくなってきたんだ」
と言ったら、反応なし。遠くを見つめる目。

嫁に来た頃、Fさんがパートさんとして我が家を仕切っていました。子供達が中学校ぐらいまで手伝ってくれていました。

姑は優しい人で、私が何も出来なくても
「そのうちできるようになるから。大丈夫」
と言う人でした。

しかし、Fさんは
「そんなことも出来ないんだべが。まったく、今の嫁さんは!学校で何を習ってきたんだべ」
と言いました。

若かった私は
「なんて意地悪な人なんだろう」
と、時にはその辛らつな言葉に泣きました。

でも、意地っ張りの私は
「子どもの浴衣ぐらいは母親が縫ってやるもんだべ」
と言う言葉に
「そうね。では縫って着せますから」
と、和裁の本と首っ引きで子供達に浴衣を縫って着せるような、可愛くない嫁でした。

お料理も
「こんな味付けでよく料理作ったって言えるね」
と容赦なくだめ出しをされました。本気でお料理の本やテレビの料理番組を見ては、ノートに書き写して、勉強しました。

着物の着付け、梅干の漬け方、障子張りなどなど。若かった私は彼女への対抗心だけで必死におぼえました。

おかげで大体のことを何とかできるようになったのです。

そんな彼女も、我が家の子供達を自分の孫のように可愛がってくれました。娘が死んだときには、もうすでにパーキンソン病で痴呆が始まっていたのに、写真を指差して
「菜穂ちゃん・・・死んだ・・・かわいそう・・・」
って言ってくれたっけ。

ご主人が喘息で闘病生活が長かったから、朝から晩まで良く働いて子ども4人を立派に育てたんだよね。

お日様よりも早く起きて、田んぼと畑の仕事をし、子供達に朝ご飯を食べさせて、洗濯物を干して、朝日館に来る。暇を見つけては家に帰り、洗濯物を取り込んだり、夕ご飯の支度をして又朝日館で働く。

時々お箸を持ったまま居眠りしていることもあったよね。
あなたぐらい働いた人は新地町にはいないでしょう。

あんなに働いた手は、もう小刻みに痙攣するだけで動かない。
その動かない手をさすって
「Fちゃん、あんたがいたから、今、私は朝日館の女将をしてられるんだよ。いろいろなことをいっぱい教えてくれてありがとう」
と言ったら、涙が止まらなくなりました。

私の泣き顔を不思議そうに見ているFちゃん。

泣きながらもう一度
「Fちゃん。私のこと忘れないよね。朝日館のみほちゃんだよ」
と言ったら、また、コクリと首が動きました。

by asahikanokami | 2006-09-07 13:06 | 私のこと | Comments(4)