朝日館の女将のてんてこ舞日記


東日本大震災で被災した小さな旅館の女将の日々
by asahikanokami
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めいすい君

めいすい君と言っても「名水君」ではありません。「明推君」です。明るい選挙推進協議会のマスコットなんです。

このめいすい君は投票箱のキャラクターなんです。だからなんとなく体が四角でちょっとメタボ。

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背中にはカギがついています。開票までしっかりと投票用紙を守ります。

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頭の上には投票口がついています。

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そして今日、めいすい君本人が新地町役場の期日前投票所にやってきました。

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実物は結構大きい!ちょうど今日は私が期日前帳票所の管理の当番でした。
もちろんミーハーな私はしっかりと一緒に写真を撮ってもらいました。

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今日はカメラを持っていなくて
「わぁ、失敗。カメラ持ってくるんだったわ」
と言ったら
「携帯で撮ったら」
と言われて、携帯を取り出したのですが、携帯で写真を撮ったことが無いのよねぇ。

「これを押すのかな。あら違ったわ・・・・」
と、おたおたしていたら、めいすい君と一緒に来た県の職員の方が、見かねて撮ってくださいました。

携帯のカメラぐらい使いこなせないと・・・・・と反省して、後で撮って見ました。
なんとか撮れたけど、次回、何かを撮ろうと思ったら、きっと操作を忘れていてまた、おたおたすること間違いなしです。

時々使わないと忘れるから、時々撮ろうと思いました。・・・・・・でも・・・・撮ろうと思っていることも忘れそうです・・・・・・・。困ったもんじゃわい。

ブログを書きながら、めいすい君の背中についていたカギの写真を撮らなかったことを残念に思っています。

失敗したなぁ~、カギを撮るんだったよ。けっこう大きなカギがついていたんだもの。残念!

by asahikanokami | 2010-10-28 21:52 | 私のこと

嫁の務め

長々と続いたスピーチ。その間、大笑いをし、時には感動の涙を流し、大盛り上がりの同級会。

スピーチを聞いていて、気がついたのは、時々出てくる「嫁の務め」という言葉。「嫁の務め」なんて今のお嫁さんは知らないかも。

私たちが結婚するときには、母親たちからは
「お姑さんが言うことには逆らってはいけません。お姑さんが『カラスは白い』と言ったら『はい、白いです』と答えなさい。お姑さんが言うことには『はい』と言う以外の返事をしてはだめですよ。その家の家風を守り、舅、姑を無事にあの世に送り出すのが嫁の務めです」
と言われたものです。

わが同級生たち、無事に嫁の務めを終えた人、今、嫁の務めの真っ最中の人、それぞれでした。でも誰もが両親の介護は、嫁として当たり前だと思っているのです。

大事な主人を生んで育ててくれた人です。嫁姑の葛藤があったにしろ、介護を必要としている人を見捨てるわけには行かないのです。

遠くに住んでいるお姑さんを引き取って同居を始めた人、同居していた人。遠距離介護をしている人、していた人。きっとこの場ではいえないような苦労があり、今も苦労していることでしょう。それでも
「仕方ないよね。嫁の勤めだもの」
と明るく笑っている同級生たち、全員に表彰状と感謝状をあげたいと思いました。

翌日は、せっかく久しぶりに会ったのだからと、お昼までおしゃべりをし、茶道具を持ってきてくれた人が居たので40年ぶりのお茶会をし、私が打ったそばを食べ、解散となりました。

会うまでどんな風に変わっているのか、楽しみでもあり、心配でもありました。でも杞憂は無用でした。会った瞬間に40年の歳月は吹き飛び、容姿を棚に上げると、全員が女子大生に戻ることができたのでした。

それにしても40年という歳月を思います。年を重ねることによって、人間は成長するものです。あの当時、我が強くて何でも思い通りにしたかった私。いつも誰かと衝突し、いつも何かに怒っていたような気がします。自分の思い通りにならないことにいらいらしていた若いころの私。

長い年月の中、あちらと衝突し、こちらと衝突しているうちにだいぶ角が取れました。
人のことを受け入れる度量もつきました。自分を納得させる術も身に着けました。年をとるとはこういうことをいうのでしょうか。だとすれば、年をとることはなんと素敵なことなんでしょう。

同級生たちもそれぞれが、とても穏やかになっていました。みんなが素敵に年をかねていることが嬉しかったです。

あのころ、だいぶディスカッションをしました。誰も自分の意見を押し通し、なかなか結論が出ませんでした。若いころは相手を認めることは敗北だと信じていたのです。

還暦を過ぎて、何が一番大事かわかるようになり、それ以外はどうでも良いことなんだと気がつきました。大事なものとそうでもないものとの区別がつくようになりました。若いときはすべてが大事で、すべてを手放せませんでした。

友人の歩いてきた人生を聞きながら、涙し、拍手を送る同級生たち。

相手と調和し、なおその上、思いやりのあふれていました。
これぞ、すなわち茶道の基本「和」と「敬」にほかなりません。わずかに2年しか勉強しなかった茶道ですが、40年たって顧みると、わが人生の指針であったとつくづく思い、感謝でいっぱいです。

良きかな同級会!!

by asahikanokami | 2010-10-20 21:25 | 私のこと

12名の人生

さて、ずいぶんと長いこと、ブログの更新をさぼってしまいました。福島県知事選挙が始まり、選管の私は、16日間の選挙期間中に4回もの期日前投票所の当番があります。

その他にも、何回かの会議があったり、スーパーの前で棄権防止の啓発のためのチラシとティッシュ配りがあったり、町内の事業所にお願いに回ったりと、結構忙しい毎日です。

その他に、知人の陶器の展示会やら、その陶器を使ったランチの会やら、昔話の会やら、いろいろとお出かけのことばかり続いていて、留守ばかりしています。

ブログも途中で気になっていました・・・・・・・・が・・・・・・・・すでに毎日、いろいろなことがあって、同級会が遠い記憶になりつつあります。この頃、忘れるのが早いこと!!自分でも自分のことをびっくりしてしまいます。

さて・・・っと、同級会はどこまで書きましたっけ???

そうでした。いよいよ宴会が始まりました。まずはそれぞれが、40年をどう過ごしてきたのか、近況報告を兼ねてスピーチすることになりました。

一人一人が、結婚して、出産して、子育てをして、子供が独立をして、孫が生まれたり、両親の介護があったり・・と、大筋では同じような人生を歩いてきたことがわかりました。

しかし、それぞれの人生。わが同級生たちがすばらしいと思ったのは、いろいろな苦労や困難にあっても、みんな前向きに歩いてきたこと、そして何よりも、一人も離婚することなく、どの人も自分の夫のことを褒めたことです。

12名も集まると、中には一人ぐらい離婚経験者が居るものです。離婚が悪いといっているのではありません。止むを得ない場合も多くあります。離婚するのも大変だけれど、長年連れ添うのも大変なことだと、経験上、私は思うのです。おっとっとも同様に思っていることでしょうけれどね。

わが同級生たちは
「いろいろあったけれど、主人と結婚して幸せです」
と異口同音に言ったのです。

同級会だから見栄を張ってそう言ったのでしょうか?いいえ、違うと確信してます。その前に語った40年間の話を聞くと、やはり、皆、この人と結婚してよかったと思っているのは本当なんだと思えました。

誰一人、平穏な40年はありませんでした。人生、山もあれば谷もあります。山を越え谷よじ登ってきた人の人生は、たとえ平凡な市井の人の人生であっても感動的です。

それぞれが語る来し方を聞きながら、笑ったり、泣いたり。
気がついたら、18時から始まった宴会がでしたが、21時40分過ぎてもまだ11名しか話をしていませんでした。とりあえず一次会を終了して二次会場に場所を移し、最後の一人がスピーチを終えたのは22時半を回っていました。

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by asahikanokami | 2010-10-19 21:08 | 私のこと

40年たっても乙女は乙女のまま・・・・・・か?

小学校の同級会の時は、最初は誰が誰かわかりませんでした。名前を聞いてもう一度顔を見ると、今の顔がだんだん小学校の時の顔に変貌してきて
「な~~んだぁ!」
と思いました。同じように同級生たちも、美少女(えっ?)の美保子ちゃんが、しわやしみの浮き出たおばちゃんになっていてびっくりしたことでしょう。年をとるってそんなもんです。

さて、わが同級生たち。二時に仙台駅に集合し(午前中から同級会を開始した人たちもいたらしい)列車の中からすでにおしゃべりをしてきました。

新地駅に到着。会った途端にすぐに誰かわかりました。
「わぁ~~~!!皆、変わってない!!」
その瞬間、私は女子大生に戻った気がしました(あくまで気がしただけです。戻れるわけがない・・・・・・でも、本当は戻りたい!)

このまま我が家でおしゃべりするのもいいけど、秋の夜長、おしゃべりは今夜のお楽しみにして、相馬が初めての人も多いので観光に出かけました。

相馬の定番のコース。県立公園の松川浦。

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磨崖仏の百尺観音。

相馬中村神社。

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その間もしゃべる、しゃべる、しゃべる。
笑う、笑う、笑う。

朝日館に到着する前におなかの筋肉が痛くなりました。

そして思ったのは、性格は40年たっても変わらないなぁということ。
明るかった人は今も明るい。おっとりしていた人は今もおっとり。元気だった人は今も元気。静かだった人は今も静か。世話好きだった人は今も世話好き。

わが同級生たちは、きっと穏やかに人生を歩いてきたのでしょう。性格が一変するほどの苦労に出会わなかったのでしょう。

少しは苦労もあったかもしれないけど、それぞれが良い人生を送ったのね。皆のおしゃべりを聞きながら、とても幸せな気持ちで車を運転しました。

朝日館に到着したのは17時すぎ。18時から宴会ということになりました。

by asahikanokami | 2010-10-09 21:31 | 私のこと

宮地房江先生のこと

一番うれしかった話の次に、宮地先生のことを書くことになってしまって、ちょっと悲しいです。

同級会から一夜明けて、6日の新聞に大きく写真入りで載っていたのは、宮地房江先生の訃報でした。

宮地先生は染色家として国内外に有名な方です。その作品は、大きなタペストリー4枚の「宮城の四季」が、仙台市博物館に収蔵されているのをはじめ、昭和天皇、皇后や、アメリカのルーズベルト大統領にも献上されました。

新聞によると、享年99歳とのこと。先生は御長命だったんですね。

私は宮城学院家政科で、二年間染色を教えていただきました。今思うと、その頃の先生は私よりもずっとお若かったはずですが、その当時はものすごくご年配の先生という印象でした。

とても優しい先生で、研究室までわからなかったことを質問に行くと、紅茶を出してくださって、長時間、わかるまで熱心に個人授業をしてくださいました。

また、ある日、級友が染料をこぼして、自分の白衣が染まったことがあります。すると先生が
「すぐにお脱ぎなさい。脱色してあげますから」
とおっしゃいました。級友が
「先生にお願いするわけにいきませんから、家に帰って自分で洗濯します」
と言うと
「遠慮すること無いのよ。私の方が脱色するのは上手だと思うから。ほら、お脱ぎなさい。この次の授業まで洗濯をしてきてあげますから」
とおっしゃって、次回の授業の時には真っ白になった白衣を持ってきて下さったのでした。

ロウケツ染がお好きな先生で、卒業試験はロウケツ染でした。私は一生懸命に染めた布なので、布のままにしておくことができなくて、茶道の懐紙入れを作って提出しました。

その時に
「何か作品にして提出したのはあなたが始めてよ。こんな風に作品にして、大事に使ってもらったら、染めた布も喜ぶと思うわ」
と、とても喜んでくださって、上手でもない私の作品に98点の最高点を付けてくださいました。

卒業後、私は岐阜の製糸工場の中にある学園で家庭科を教えていました。その時に、授業で染色をしようと思い、材料をどこで買ったらよいのか、先生にお手紙を出したことがあります。

とても大きな封筒が届いて、丁寧なお返事と染色材料のパンフレットが入っていました。たぶんお礼に何か送ったと思うのですが(このあたりの記憶があいまい)先生から藍色のロウケツ染の花瓶敷きをいただきました。

結婚後、新聞で先生のタペストリーが仙台市博物館に収蔵されることになり、そのお披露目があると載っていました。早速、博物館に出かけて大きな大きなタペストリーを感激しながら拝見しました。
「私はこの先生に教えていただいたのよ」
ととても誇らしく思ったものです。

新聞によると、数々の美術展で受賞なさっていらっしゃったとのこと。

気まぐれなロウを自在に操り、ロウが描き出す柔らかな線を「ロウのユーモア」と呼んでいらっしゃった先生。

「年中ロウに触っているから、私の手は乾燥してガサガサなのよ」
とおっしゃってほほえんだ先生。

次から次と宮地先生のことが思い出されます。

先生どうぞやすらかにお眠りください。心からご冥福をお祈りいたします。
ありがとうございました。

by asahikanokami | 2010-10-08 20:50 | 私のこと

水無月のお茶会

え~~~と・・・・40年ぶりの同級会について、何から書こうかなと思いましたが、やはり一番うれしかったことから書きたいと思います。

それは今年の初夏のお話です。

母校の茶道部から連絡があり、何名かが母校を訪れました。目的は、茶道部の歴史の資料が無いので、在学中の様子を教えてほしいという事だったそうです。

そこで、わが同級生たちは緑水会のこと、緑水庵まで茶道具をリアカーで運んだことなどを話しました。

すると!驚くような報告が!!

なんと、お茶会は私たちが卒業した後も、ずっと40年間一度も途切れることなく「水無月のお茶会」として続いているというのです。

なんと嬉しいことでしょう!!

私たちが卒業後に、一学年下の後輩たちが、私たちをまねてお茶会を開いたという話は聞きました。しかし、そのお茶会が、今でも続いているなんて思ってもいませんでした。

出席した人たちから報告を受けて、全員が大感激と大喜びをしました。

そして、実はその会に出席した4名が相談をして
「そろそろ緑水会の皆で集まらない?」
「じゃぁ、美保子さんの所で」
と決まったらしいのです。

14名の会員のうち12名の出席という高確率。

花も恥じらう乙女たちは、40年たっても花も恥じらうまま年を重ねて、まるで乙女のようなおばさんたちになっていました(ごめんなさい。嘘です)

by asahikanokami | 2010-10-07 21:43 | 私のこと

緑水会

今を去ること40年前、仙台市の緑水庵というお茶室でお茶会を開催しました。

開催したのは、宮城学院女子短大&女子大の茶道部の二年生、14人。

「まぁ!なんと無謀な!あなた達は、お茶のお稽古を始めてやっと一年たったばかりでしょう。それなのにお茶会なんて・・・・・」
という先生の驚きと絶句をよそに、茶道のなんたるかも知らない乙女たち14名が
「やってやれないことはないよね」
と、行動を開始したのでした。

しかし、物事を知らないというのは恐ろしいものです。茶道の奥深さ、むずかしさに気がついたのは、お茶会を開催するわずか前。慌てても遅い!!

それから必死でお稽古をし、準備をしました。ほとんど毎日集まっては、ああでもない、こうでもないとディスカッションと準備の毎日でした。

お茶会を自分たちでやるとなると、考えていた以上に、とても、とても、とても大変でした。
まず何と言ってもお茶会ですからお茶を立てなければなりません。必死にお稽古しました。

それから貸して下さるお茶室探しです。いろいろ探し回って、仙台市がお茶室を貸してくれるという事を知りました。それが緑水庵です。

そしてお茶席券の手売り。当日、何人のお客様が来て下さるかの目安になります。人数が少ないと赤字になるので、友人や家族に押し売りしました。

お菓子の手配。季節のお菓子を有名なお菓子屋さんに注文しました。「水」と「鮎」という二種類だったと思います。

お茶会用の道具の調達。
お茶わんや茶杓などの道具には、銘があって、その銘(名前)がその季節にふさわしいかどうか。掛け軸や当日焚くお香なども同じです。こちらは先生が高価なお道具を貸して下さるとおっしゃってくださいましたが、今の自分たちに高価なものは似合わないからと、持ち合わせのお道具を持ち寄りました。

そして、今一番思い出すのは、前日に大学から緑水庵まで、道具の数々をリアカーに山積みにして(当時は車を持っている人は皆無でした)運んだこと。

仙台のど真ん中。女子大生がリアカーを引いて歩くのですから、リアカーも引くけど人目も引きます。ものすごく恥ずかしくて、皆無口で、下を向いて足早に歩きました。今思い出しても笑ってしまいます。

当日も大変でした。

掛け軸の位置。茶花の生け方。お菓子の盛り付け一つでもとても気を使ったことを覚えています。

お掃除も、露地の飛び石を一つ一つ磨き上げ、雑巾がけしました。お茶席までの通路の庭木の葉も、歩く人が触りそうな場所は、葉っぱの一枚一枚まで拭いて、着物が汚れないように気を使いました。

よくわからないことばかりだったので、毎日、頭をくっつけて勉強会をしました。おかげで、とてもよい経験になり勉強になりました。このお茶会の成功が、一番の良い思い出になっています。

お茶会終了後に、メンバー14名で「緑水会」を結成しました。卒業後は、一度集まったことがありましたが、それぞれ結婚やら、出産やら、子育てやら、その後の両親の介護など、いろいろなことがあって、集まる機会がありませんでした。

メンバーの一人から
「久しぶりに集まりませんか?」
と手紙が届き、明日、14名中12名が我が家で同級会ということになりました。

40年ぶりです。花も恥じらう乙女は今どうなっているのでしょうか?
楽しみでもあり、恐ろしくも(笑)あります。

お孫さんがいるメンバーも多いので、孫自慢をいっぱい聞かされそうです。

by asahikanokami | 2010-10-02 22:04 | 私のこと