朝日館の女将のてんてこ舞日記


東日本大震災で被災した小さな旅館の女将の日々
by asahikanokami
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鬼の撹乱、晴天の霹靂(その2)

実は私は今、我が家のホームドクターがいる猪苗代町にいます。小川医院が連休中は入院患者を取らないというので、近くの民宿のお部屋を借りて治療を受けています。

おっとっとが入院中もずっと体調が悪く、夜になると微熱が出るし、咳も止まらず、鼻もズルズル状態が続いていました。

それでも検査の結果が心配で無理して病院に行っていました。
さすがに退院の日は起き上がるのが億劫で、息子が病院に行ってくれました。

寝ていても、頭の上を
ラジコンカーが唸りをあげて走り抜け、そのあとを子供達が追いかけていきます。夜中にはトイレに行くために絶え間なく誰かが行きます。
とても静かに養生等というわけにはいきません。

そのうち、自分でもどんどん具合が悪くなっていくのがわかり、ホームドクターに電話してここにきた次第です。

ここの民宿には浪江町から30人ほどが、原発避難をしています。でも私たちの部屋はちょっと離れているので静かですし、豪華な物はありませんが手作りの心の籠ったお食事が出ます。とても美味しくて、食欲がなかった私にはとてもありがたく、いつも感謝していただいています。

私一人を置いてすぐに帰る予定だったおっとっとですが、今田先生ご夫妻に大歓迎を受けたとたんに、帰ることを忘れました。

息子からゆっくりしてきたらと、電話を貰うに至って、すっかり腰を下ろしています。

お陰さまで、日に日に、体調がよくなり、食事も食べることができるようになり、今日は点滴が終了後、美味しいおそばを食べて来ました。

5日に仮設住宅に引っ越し出来ることになったと、息子から連絡が来ましたので、2日に帰る予定です。

夫婦揃って大変にご心配をお掛け致しました。もうすっかり元気ですのでご心配なく。

by asahikanokami | 2011-04-30 17:01 | 避難生活

鬼の撹乱、晴天の霹靂(その1)

ブログがずっと滞っていて、多くのかたからご心配いただいたり、メールをいただきっぱなしでごめんなさい。

私はずっと風邪が抜けず、夜になると微熱が出るし、咳も止まらず、鼻もズルズル状態が続いていました。

日にちが18日から19日に変わって間もない頃、隣に寝ていたおっとっとがトイレにいく気配がします。
しかも、失礼なことに、私をふんずけて行きました。

間もなく、ドスンと鈍い音がして、誰かの金切り声が聞こえました。
「てっちゃんが倒れた!」

おっとっとは部屋の入り口のところで倒れていました。呼んでも意識が戻りません。
そのうちおおいびきをして、そのイビキがピタリと止まりました。

「息してない.....」
「心臓も止まってる!」

えぇっ!なんですって!心肺停止ってこと?

「救急車を呼んでください」

誰かが心臓マッサージしてくれています。息子がA E D を借りに事務室に走りました。

間もなく息は吹き替えしたのですが、意識は戻りません。

救急車が来るまで20分ぐらいかかったでしょうか。
「意識レベルゼロ」
救急隊員のかたのこえが避難所に響きます。

救急車のなかで
「会長!大丈夫ですか?」
と声を掛けられたら、目をあけ新地町防火安全協会の会長は
「大丈夫だ。迷惑かけてすまねぇ。トイレに行きたかったんだ」
と答えたので、膝の力が抜けるほどホットしました。

そのまま相馬公立病院に入院となりました。

翌日から、脳外科でM R I やC T やエコーなどを、循環器科でも色々な検査を、耳鼻科で無呼吸症候群の検査までしたのに、それなのに、検査結果はすべて
異常なしだったのです。

では、いったいあの騒ぎは何だったのでしょう!

かくして、おっとっとは23日に無事に退院しました。


めでたし、めでたし..............と言いたい所ですが、この続きは明日か、明後日書きます。

どこも悪いところがないとお墨付きを貰ったおっとっとは、前にも増して元気ですのでご心配なく。

by asahikanokami | 2011-04-28 21:37 | 避難生活

セロ弾きのゴーシュ

子供のころ、大好きだった童話に宮澤賢治の「セロ弾きのゴーシュ」があります。

チェロの奏者のゴーシュは演奏が下手だとさんざん叱られた夜に、一人で練習中に、かっこうやたぬきの子やノネズミの親子に出会って、音楽は楽しむものであり、時に病気さえ治す力があることを知ります。

娘が中咽頭癌で、舌の半分を切除して退院したとき、中学校から習っていたフルートを抱えて屋上に上っていきました。しばらくして降りてくるなり
「お母さん。私チェロを習うことにしたわ。前からずっと習いたかったの」
と言いました。その言葉で、娘はもう思うようにフルートが吹けなくなったことを知りました。

東京に帰った娘は本当にチェロを習いに通っていたようです。

避難所のエントランスホールに、サンサーンスの白鳥の曲が、緩やかに流れていきます。
チェリストの中川さんの慰問です。

川の流れのようになど、みんなの知っている曲や、名前も覚えられないようなクラシックの楽曲など、一時間があっという間に過ぎて行きました。

演奏の間、津波のことも、避難生活のことも、何もかも忘れてゆったりとした時間を過ごすことができました。

チェロの周波数は楽器のなかでは一番人間の声に似ているという話を聞いた気がします。

体の血流が良くなってポカポカします。ノネズミの坊やみたいに、体の悪いところが全部、よくなった気がします。
ほんのひととき、娘のことを想いだし、頑張らねばと思ったのでした。中川さんありがとうございました。

by asahikanokami | 2011-04-15 17:50 | 避難生活

ほんのちょっとの贅沢

色々な方から必要なものは何かというお尋ねが来ます。そしてそのあとに出来ることなら送ってあげたいと、涙が出るほど優しい文面が続きます。

避難所で最初のころ必要だったのは、身近な日用品。タオル、歯ブラシ、ティッシュ、等々。そしてお水と食事。

少し落ち着いたら下着などの衣類。食器。箸。お食事を取りに来れないお年よりに運ぶお盆。食材は届くのになぜか調味料が少なくて、おしょうゆやお砂糖がほしかったです。

一ヶ月過ぎて、日用品も衣料品も食料もゆきわたってきています。ご支援に感謝します。

今必要なもの。なんだろうと私なりに考えてみました。
そうですねぇ...........一言で言えば「ちょっとした贅沢」とでも言いましょうか。

先月の末、若い女性に
「お化粧したいけど贅沢だって思われそうでできないんです」
といわれました。避難民の分際でお化粧するとは贅沢な!と言われそうだというのです。

そういえば、震災以後、私はずっと素っぴんでした。お化粧をしようという心の余裕さえありませんでした。

ちょうどガソリンも入ったばかりだったので、すぐに化粧品を買いにいきました。なにせバックの中に入れていたファンデーションと口紅以外はすべてなくしてしまいましたから。

久しぶりにガサガサの顔に化粧をしました。なんという幸せ。心がふっくらと膨らむような気がします。私の干し柿が粉をふいたような顔を見て、彼女はにっこりとし、早速お化粧をしました。

こんなおばさんでさえ嬉しかったのですから、若い彼女はどんなにか嬉しかったことでしょう。

今、ここに必要なもの。ちょっとした贅沢。

若いお兄ちゃんたちにはお腹いっぱい焼き肉を食べさせたい。
お父ちゃんたちは、パチンコに行くか、美味しいおつまみで一杯飲ませてあげたい(公共施設なので禁酒なのです)
お母ちゃんたちにはスーパーで買い物させたい。
お年寄りは温泉で一日ゆっくりしてほしい。
子供たちを遊園地で遊ばせたい。

自分達が多くの方のお世話になりこうして暮らしている、暮らすことが出来ていることに感謝すれば感謝するほど、贅沢しては申し訳ないと我慢することもあるのです。

毎日ではありません。一度か二度でいいのです。
そしてこれが私のとても贅沢な願いです。

by asahikanokami | 2011-04-14 13:29 | 避難生活

風邪をひきました

更新が滞って色々ご心配をお掛け致しました。

鬼のかくらんで、おとなしく寝ていました。
幸い、横須賀共済病院と、三井記念病院のお医者様が隣の町役場に交代で常駐していてくださいます。

夜中でも優しく診察していただき心強かったです。
で、一晩で熱が下がったのですが、度重なる余震で高台に避難したりしていたので、風邪の治りも一進一退。
不安を抱えて生活していると治癒力も低下すると、身をもって感じています。

やっと食欲も戻り、炊事係にも復活。どうぞご安心ください。

震災から一ヶ月。ちょうど疲れが出てくる頃なのだと思います。風邪が蔓延し、インフルエンザにかかった人は、二人隔離されています。体調を崩す人もいて、通院しているのか昼は避難所の人数は激減します。

誰もが明るく元気にしていないと、折れそうになる心を抱えているのでしょう。
夜中には、うなされている人がいます。

どんな悪夢を見ているのでしょう。所構わず泣かせてあげたい。親を子を亡くした悲しみ、苦しみ、どこにもぶつけようのない怒りを、思いっきり吐き出させてあげたい。

強要されず自分からそうするのには、まだまだ時間が必要です。

それまで、黙ってそっとしてあげるのも優しさかもしれません。

by asahikanokami | 2011-04-14 08:27 | 避難生活

D N A

東北には長い間、恵まれなかった歴史があります。干魃や冷夏による飢饉。中央の搾取。度重なる津波や洪水などの天災。

それでも東北人は、黙って黙々と働き、何度も何度もどん底から這い上がってきました。

東北人は、辛抱強いのです。滅多なことではギブアップしないのです。
東北人は勤勉なのです。いつも一生懸命黙々と働きます。

時にその事が東北人は愚鈍であるという誤解を生んだりしました。

ドラマなどで、ちょっと頭が足りなくて気が利かない人には、たいていの東北弁をしゃべらせるという安易な設定は、東北人は愚鈍であると思っている人が多いからでしょうか。

もう一度書きます。

東北人は辛抱強いのです。東北人は勤勉なのです。
決して鈍いわけじゃありません。
最後まで頑張りとおすのです。

だから今までも度重なる津波や洪水などの天災にあっても、いつも黙々と働き復興して来ました

私たち東北人には、ちょっとやそっとではへたこれない先祖からのD N A があるはず。
どんなときも負けずに元通りに復興してきた先祖からのD N A があるはず。

ほだがら皆、がんばっぺ!
大丈夫だ!絶対なんとかなる。

ほだって、こだにいっぺの人が応援してんだもの!
自分のなかのD N A を信じっぺ!!

by asahikanokami | 2011-04-08 18:20 | 避難生活

保健センターへ

3月14日、役場の三階から隣の保健センターに移動することになりました。

町役場は対策本部になり、続々と自衛隊や全国の消防隊が駆けつけてきてくれました。

駐車場にずらりと並んだ救急車や消防車の横に、どこにあるのか聞いたこともない地名が書いてあります。

どのぐらいの距離を走って来てくださったのでしょう。途中、きっと道路が寸断されていたり、崖崩れの所もあったことでしょう。

自分の命もかえりみず駆けつけてきてくれたのかと思うと、ありがたくて頭が下がります。

保健センターは、大きな部屋に全員で雑魚寝です。

救援物資も少し届くようになり、下着や膝掛けや毛布等が配られました。

食事は自衛隊の方がご飯を炊いてくれるので、味噌汁や簡単なおかずはみんなで作ります。

女性中心に30名ほどが交替で三度の食事の準備係が結成されました。

男性たちはトイレ掃除と部屋掃除の班ができ、毎朝のラジオ体操の係、換気係、カ-テンを開ける係など、細かく分担が決まりました。

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(ラジオ体操)

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(お掃除はほこりが立たないようにぬれた新聞紙をちぎって撒く。おばあちゃんの知恵が役に立つ)

全員が被災者。全員が全て無くしたという共通の境遇が、不思議な連帯感を生んでいます。

狭い所にぎっしりと人がいるので、何か問題が起きそうな予感がしたのですが、予想に反して、和気あいあいと避難所生活はスタートしました。

by asahikanokami | 2011-04-07 09:15 | 避難生活

家族会義

親子三人、避難所の片隅で頭をくっつけて家族会義を開きました。

これから先のことは、すべて息子の決意にかかっています。

まずは朝日館を閉めるか?それとも続けるか?

これは、息子に継ぐ意志がなく、今の仕事が楽しいというので、すんなりと朝日館は幕を下ろすことに決まりました。

明治初期から続いた朝日館がこんな風に幕引きされるとは、思ってもいないことでした。

いろいろな思い出が胸に去来して、涙がこぼれます。

大勢のお客様やお得意様に支えて頂いて、朝日館がここまで続いてこれました。
ありがとうございましたという言葉以外に言葉は見つかりません。

「泣くことがあるか。もともと後5年で閉めるつもりだったべ。5年早まっただけだべ」
こういう時には、お気楽亭主の無駄な明るさが救いになります。

次は家のこと。

あの惨状を目の当たりにして、もう海辺に住む気持ちにはなれません。地盤が1メートルぐらい沈下しているという噂も聞いて、なおさら嫌になりました。

息子が独身を通すならアパートを借りるという方法もあります。
結婚する気があるのなら、最初から二世代住める家を建てなければなりません。

「今付き合っている人はいないけれど、結婚する気はあります」
ということなので、小さな二階建ての家を建てると決めました。

無くした物を考えても仕方がない。三人で力を合わせて生きていこう。そう確認して家族会義を終了しました。

村上家頑張るぞ!えい!えい!お-!!

by asahikanokami | 2011-04-06 11:36 | 避難生活

三陸大津波

小学生の頃、三陸大津波の話を何度も聞きました。

私が住んでいたのは岩手県の岩泉町。三陸海岸まで車で30分ぐらいでしょうか。

学校の先生からも、近所のお年寄りからも聞かされました。

私が津波の怖さを心に刻んだのは、5年生の海浜学校の時です。

食事を作って下さっていた地元のおばさんと先生の会話を聞いたのです。
おばさんは、津波の恐ろしさを語っていました。

津波が引いたあと、高い木に髪の長い女の人がはだかでひっかっかって死んでいたという話は、私を震え上がらせました。

裏山のてっぺんにある神社の何段めまで波が来て、それよりも下の人は逃げ切れず流されたという話も怖かったです。

子供の頃から好奇心いっぱいで、思い立ったら即行動する私は、神社があるという裏山に行ってみました。

おばさんが言った段数を数えて登ってみると、それは想像以上に高く、遥か下に海が見えました。
小さな入り江には、数せきの手漕ぎ船。何軒かの小さな家が並んでいます。

海面がこんな高いところまで来たのが信じられない高さでした。
ここより下までしか逃げることができなかった人は、流されて助からなかったのか!....

小さかったせいもあり、その位置がとても高く感じられて、木のてっぺんで髪を絡ませて死んでいた女の人の話と重なり、なおいっそうの恐怖となって私の記憶に残ったのでした。

今回、地震の後で津波が来ると思った瞬間、きっとどこかで子供の時に聞いた津波の恐怖が、逃げるという選択をさせてくれたのかもしれません。

小学生時代を岩泉ですごし、津波の恐怖を聞いて育ったことが、私たち夫婦の命を救ってくれました。

これから先、私も小さい人たちに繰り返し、繰り返し自分の体験を語っていきたいと思っています。

by asahikanokami | 2011-04-05 21:49 | 避難生活

あぁ我が家よ

一夜あけて役場の屋上に上がって新地町の惨状を見ました。

役場から海まで、今まで見たことがない風景が広がっています。
これが本当に新地町とは、信じられません。

まるで昔の写真でも見るように、泥と瓦礫の町は、海までが泥の色です。
何処にも色彩はありません。

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残っているのは、下水処理所と漁協と海華という以前旅館だったところと我が家だけ。
一面の泥の海と点々と散らばっている瓦礫だけです。
土手のつくし、庭に芽をだしたばかりだったチューリップ、花芽が膨らんできた菜穂の桜。
すべてがこの泥の海に呑み込まれているのでしょうか。

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目の前に広がる風景の中には、人間はもちろんのこと、動物も草木も昆虫さえも生の営みを感じることができません。

自然の暴挙を前にして、自分の小ささを、命のちっぽけさを思うと、からだがふるえるようでした。

なぜ?どうして?

その答えが見つからないとこれから先、一歩も進めないような気がして。役場の屋上から我が町を見つめていました。

なぜ?どうして?

その時、昨夜、毛布にくるまって思ったことが頭に浮かびました。

生きているだけで幸せ。

そうだよ!生きている!それ以上何を望んでいるんだろう!

この無機質な風景の前では、私のちっぽけな命の存在は何よりも大きい。生きているということはなんてすごいことなんだろう。私は生きている。命がある。

そう思った瞬間、どっと涙が出て、すべてが吹っ切れ、前だけを見て生きていこうと決心しました。

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by asahikanokami | 2011-04-05 09:32 | 避難生活