朝日館の女将のてんてこ舞日記


東日本大震災で被災した小さな旅館の女将の日々
by asahikanokami
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お汁粉の思い出

前の日記のコメントに、お友達のmamiちゃんが、支援物資の中に入っていたコーヒーを飲んだ時に、震災後に余裕もなく必死に生きてきたことに気が付き、ほっとした瞬間に涙が出たことを書いてくれました。

それを読んで思い出したことがあります。

3月20日のこと。厨房で食事の用意をしていたお母さんたちから
「今日はお彼岸のお中日だどな」

「家族を亡くした人はせめておはぎぐれぇ(ぐらい)はあげでど(あげたいと)思ってっぺな」

「砂糖もあまり無いし・・・・・第一小豆が無いべ」

「待ってろ、待ってろ(待って、待って)〇〇ちゃんに電話かけてみっから。あそこは流されてないから小豆があっかもしんね(あるかと思う)」

そして

「〇〇ちゃんが残っている小豆を全部くれるって!!」

という返事に歓声が上がりました。しかしもらってきた小豆では、おはぎをこしらえて全員に配れるほどの分量がありませんでした。

「ほんでは(それなら)お汁粉だ。誰か役場に行って交渉して砂糖をもらってきて」

「交渉係はてっちゃんしかいないべ」

こうして、もらった小豆と、おっとっとが支援物資置き場から探し出してきたお砂糖二袋で、お汁粉作りが始まりました。

まだまだ寒かった避難所。その時も120人ぐらいはいたでしょうか。白玉の小さな、ほんとうに小さなお団子が一つ入った甘みも足りなくて薄くてシャバシャバしたお汁粉が全員にふるまわれました。

「今日はお中日です。おはぎとまではいきませんが、亡くなられた方をしのんでお汁粉をいただきましょう」

あちらこちらからすすり泣きが聞こえました。涙でお汁粉をいただきました。

ある人が
「じいちゃん(ご主人)が流されて、それでも涙も出なくて・・・・・。なんて薄情なんだべって自分を責めてきたけど、今日、初めて泣いた・・・・・・・。ありがとう・・・・・・」
って、そっと言いました。

それまできっと、気持ちが張り詰めていて、自分の素直な感情を出すことができなかったのだと思います。
毎朝
「元気?大丈夫?」
と聞くと
「元気だよ。大丈夫」
と答えて、時にはおっとっとの下ネタに大笑いしていた明るい方なのに、辛いと言ったら、泣いたら、そこで折れてしまう、くじけてしまう自分がいたのでしょう。

体は食べ物で作られているのだから食事をおろそかにしてはいけないと母から教えられました。何をどう料理して食べるかで自分の体が違ってくると。

今回感じたのは、心も食べ物で作られているのだということです。

命とは、心と体の合わさったものだとするなら、命を育むのは食べ物。食べ物は体と心をつくているのだと、この身を持って感じることができました。

甘みも足りなくて薄いお汁粉でしたが、作る人の気持ちと食べる人の気持ちが重なったとき、それは大きなエネルギーとなって疲れ果てた体と心を満たしました。

愛などという言い古された言葉を使いたくないのですが、もし、なにか食べたときに愛を感じることができたなら、そこから元気が生まれ、そして元気があれば一歩踏み出せます。希望も持つことができます。

3月11日の夜。寒かったけれど夜空には満天の星が出ていました。
多くの方があの星明りを頼りにして、迷うことなくお空に昇っていかれたことでしょう。

そしてあのお汁粉が、亡くなられた方にも、残された私たちにも、何よりの供養のお汁粉になりました。



      *彼岸とて  温き汁粉の 配らるる

      *命まで   流されし人  春彼岸

      *抱き合いて 無事を喜ぶ 給水所

      *春寒の   体育館に   遺体百

      *わが町は 瓦礫となりて ツバメ待つ

      *避難所の 凍てつく窓に 春の月

      *被災者と 呼ばれし我よ ツバメ来よ

by asahikanokami | 2011-06-29 11:20 | 避難生活 | Comments(10)

美地ちゃんの歌声に包まれて

友人で障害者施設の保母をしながらシャンソン歌手をしている美地ちゃんが、南相馬市の避難所に慰問にきてくれることになりました。

「その前にみほりんの顔を見に行くからね」
と電話をもらいました。ちょうど良いぐあいにその日は息子がお友達のところに遊びに行くので留守。

「じゃあ、ここに泊まりなさいよ。仮設に泊まるなんてなかなかできない経験だよ」
といったら、最初は遠慮していたみっちゃんですが、宿泊することになりました。

一緒に機材を運んできてくれる和尚こと、便利屋さんをしている柏崎さんと一緒に、「仮設朝日館」宿泊客の第一号になりました。

ちょうど読売新聞相馬支局の若い記者さんが、我が家を取材に来るというのでみっちゃんのことも取材してもらいました。

いつもの朝日館なら、新地の港に上がったカニや魚で料理を作ることができるのですが、なにせ釣師港は被災し、その上さらに腹立たしいことに、原発事故で福島の魚は安全宣言が出ていないのです。

仮設の狭い台所で、とりあえずのお料理。それでも仲良しのお友達と囲む食卓は楽しいです。

翌日、南相馬市まで一緒に出かけました。実は相馬市以南に出かけるのは、震災以来初めてだったのです。新地町も、相馬市も目を覆う惨状です。しかし、南相馬市の鹿島区に入ったら、国道六号線のすぐそばに何艘もの漁船が打ち上げられていて、まだ片付いていませんでした。ここまで津波が来たのかと思うと、震えがきました。

南相馬市の第二中学校の食堂で、みっチャンのコンサートをしました。
ここに避難しているかた達は、もちろん地震や津波で被災しているのですが、その上原発事故で避難している人たちでした。

みっちゃんのコンサートの準備をしている間に、何人かの方とお話をしました。福島市、新潟県などを転々と避難してここに来たのだそうです。小さなお子さんたちは新潟に避難していて、ご両親と息子さんは仕事の関係でここにいるのだとか。

「原発さえなければ、家族が離れ離れに暮らすことなんてないんだげんちょ・・・・」
寂しそうでした。

お話をしていたら、とてもよい香りが漂ってきて見るとお部屋の隅でコーヒーやさんが開店していました。
石川県能美市から来てくれた橘さんという方。とても香りの良いおいしいコーヒーをご馳走してくださいました。

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美味しくて二杯もいただきました。ひっきりなしにいろいろな人が来てコーヒーを飲んでいってました。

みっちゃんのコンサートがはじまりました。彼女の人柄がそのままの歌声は、やさしく、柔らかく、透明ですっぽりと体中を包んでくれます。

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聞きにきてくださった方は、みっちゃんと一緒に大きな声で懐メロや童謡などを歌って、しばし楽しいときを過ごしたことと思います。

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今回の訪問にあわせて、みっちゃんが新しいCDを作りました。
表題になっている「聴かせて」という曲は、亡くなられたテレサ・テンさんの墓前に奉げるために、荒木とよひささんと三木たかしさんが作った曲です。

紆余曲折があってその歌をみっちゃんが歌うことになりました。
「聴かせて あなたの哀しみを 生きることの意味を 息を止めて 涙の中で」
という歌詞は、みっちゃんの声で聞くと涙が止まらなくなります。

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このCDは「東日本大震災支援アルバム」と副題が付き、売り上げ利益は社会福祉協議会を通じて、被災者に届けられます。

その上、被災者には無料でプレゼントしてもらえます。
会場でも多くの方にプレゼントされて喜ばれました。

コンサート中には、涙を流して聞いている人もいて、私までじーんとしてしまいました。
いつ聞いてもみっちゃんの歌は、心まで暖かくなります。

by asahikanokami | 2011-06-28 17:15 | 避難生活 | Comments(8)

先人の教え

今回の津波の全容がわかるにつれて、過去の津波の被害との比較と検証が行われています。

東北は過去にも大きな津波に何度も襲われてきました。

今回同様に大きかったのは、貞観津波(869年)慶長津波(1611年)明治三陸津波(1896年)昭和三陸津波(1933年)チリ地震津波(1960年)などです。おおよそ200年から400年ぐらいの周期で大きな津波の被害にあっているのです。

前にも書きましたが、私は小学校卒業するまで、岩手県下閉伊郡岩泉町に住んでいました。三陸海岸まで車で20分ほどでしょうか。海も山もあって、風光明媚で自然がいっぱいで、私の自慢のふるさとです。

子供のころ、いつも聞かされていたのは津波の恐ろしさでした。海岸近くにいたときには、地震がきたらとりあえず高台に逃げなさいと教えられました。

私が子供のころに比べると、海岸保全のために施設を作る技術は格段に進歩して、海岸を埋め立てていろいろな施設が作られるようになりました。護岸工事も進んで、堅固な堤防が浜辺を囲みました。

技術の進歩を過信し、自然の脅威を侮っていたことを今回の地震は教えてくれたと思います。

今回の津波。岩手県宮古市重茂姉吉では40メートルを超える津波が押し寄せたのではないかということです。新地町の我が家のあたりでも17メートルはあったらしいです。

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先人たちは、津波に対していつも警戒を怠りませんでした。それでも、昔は大きな建造物もなく、堤防もなかったので津波はあっという間に村々に到達して、多くの犠牲者が出たと記録に残っているそうです。

岩手県田野畑村の海岸から36メートル、標高25メートルの場所にあった「津波石」。ここまで津波が来たという伝説があったのですが、誰もまさかこんな高いところまで人間の背よりも高く、三人ぐらいで取り囲まなければならないような、20トンもある大きな石が流されてくると信じていなかったそうです。

今回の津波は、津波石の手前まできたとか。

また新聞やテレビで紹介されてすっかり有名になった岩手県宮古市姉吉の「ここより下に家を建てるな」と書かれた石碑。住民の方たちは言いつけを守ったので、今回建物被害は一軒もなかったそうです。

また、仙台市若林区にある「波分神社」。神社は海岸から直線距離で5.5キロも離れているので、まさか津波など来るはずも無いと考えられていました。しかし今回の津波は手前2キロまで到達したのです。
もし高速道路が堤防の役目をしなかったら、確実に津波は届いていたことでしょう。

地元の人は津波がここまで到達した話を聞いたこともありませんでした。1702年建立の神社なそうですので、たぶん慶長三陸津波葉ここまで到達したのでしょう。今回の津波で、地元の人たちははじめて「波分神社」という名前に納得したそうです。

新地町でも、昔の街道は、現在の国道よりもずっと西側を通っていて、かろうじて今回の津波の被害を免れました。昔の人は過去の浸水域を避けて街道や宿場を造ったことがわかります。

反対に、昭和三陸津波の教訓から44年もかけて巨大防潮堤を造って町を守ってきた田老町。チリ地震津波では守ることができた町は、多くの犠牲者が出たと報じられました。

防潮堤を過信していたというインタビューを聞き、人間の力の限界を見たような気がしました。

岩手県南部には「津波、てんでんこ」という言葉があるそうです。
てんでんことは、てんでんばらばらにという方言です。
津波のときは、とりあえず、他人のことはかまわずにそれぞれが高台目指して避難すること。高台に避難してからお互いの確認をすること。

あっという間に押し寄せてくる津波。逃げ遅れないように、人のことはかまわずにまず自分が逃げるという教えは、とても非情に思えるけれど、自然災害の脅威に立ち向かうには、このぐらいの覚悟が必要なのかもしれません。

最後に「ここから下に家を建てるな」という石碑の全文を、今後自分の家を建てる時のためにも、載せておきたいと思います。


宮古市姉吉地区に建つ「大津波記念碑」全文

高き住居は児孫の和楽
想へ惨禍の大津波
此処より下に家を建てるな
明治二十九年にも昭和八年にも津波は此処まで来て
部落は全滅し、生存者僅かに前に二人後に四人のみ
幾年経るとも要心あれ


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(かろうじて残った朝日館)

by asahikanokami | 2011-06-23 12:18 | 避難生活 | Comments(5)

合同慰霊祭

今日は私たちの仮設住宅の隣の総合体育館で新地町主催の合同慰霊祭が行われました。

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大勢のご遺族や町民がお別れをしに行きました。

94名の方が祭壇に祭られていました。
写真を見たら亡くなられた方たちのことを鮮明に思い出して、涙がこぼれてしかたがありませんでした。

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町主催の式典には、遺体捜索や災害復旧を手伝ってくださった自衛隊の方が沢山参列してくださっていました。

また式典の間には、音楽隊の方の演奏もあり、しめやかな、厳かな、けれどもどこか温かい式典だったと思います。

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その後、新地町の龍昌寺さんが法要をしてくださいました。
その中で、法上さんがお説教で

「七日ごとの供養の中でも、特に大事なのが四十九日の法要と百か日の法要です。四十九日は大練忌といって、亡くなった魂がこの世からあの世に旅たつ日です。一方で百か日は卒哭忌といって、遺族がそろそろ泣くのをやめて前や自分の足元を見る時期ですよという日です」

とおっしゃったのが心に残りました。

家族を突然失った悲しみは、百日などという短い時間では到底癒されるものではありません。
しかし、悲嘆にばかりくれていても仕方が無いのです。泣きながらでも立ち上がらなければなりません。

遺族の方がご挨拶で

「忙しいと気がまぎれていますが、ふっとしたときに思い出してやり切れません。しかし、今日を境に、少しづつ日常をとりもどしていきたいと思います」

とおっしゃった言葉に泣かされました。

まだ30名近い人が行方不明です。3ヶ月が過ぎたので死亡届を出すことが出来るようになったそうです。死亡届を出すと弔慰金が出たり、保険がおりたりします。

でも、遺体が見つかるまでは、もしかしたらどこかで生きているのではというかすかな希望があるのでしょう。死亡届を出したくないというご家族が多いと聞きました。

私の場合は、娘の余命の告知をうけていましたので、その期間は気持ちの準備期間でした。
それでも、娘の死を何年も受け入れることが出来ませんでした。12年たった今でも、心のどこかで納得できないでいます。

それが突然ご家族をなくした人は、どんなにか動揺し辛かったことでしょう。そのお気持ちを察して余りあります。

20名もの和尚様が読経するのを聞きながら、心からご冥福を祈ってきました。

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あなた達が大好きだった新地町。生き残った私たちが、必ず、新地町を復興させます。どうぞ安らかにお眠りください。そして行方不明の方が一日も早く見つかるように、どうぞ見守ってください。

by asahikanokami | 2011-06-19 21:45 | 避難生活 | Comments(6)

若いおまわりさんの功績

今日は被災から100日目。
亡くなられた方の百か日になります。明日は新地町で合同慰霊祭が行われます。それは明日、ご報告します。

今日は新地駅に停車した列車のことを書きたいと思います。100日も経つと私の記憶もあいまいになってきているので、このことはぜひ記録したいとずっと思っていました。昨日のことも一晩寝ると忘れてしまうような危うい私の記憶。忘れないうちに大急ぎで書きたいと思います。

津波の後、某国営放送のトップニュースの画面に映ったのは、被災した新地駅と折れ曲がった電車の悲惨な状況だったらしいです。
そのころ、私たちは町役場の三階に避難していたのですが、テレビがなかったのでその映像は見ることはできませんでした。

新地駅の後ろのほうにかすかに朝日館の建物も映っていて、多くの方が
「あぁ・・・・あれでは朝日館の夫婦の生存は無理だろうなぁ・・・・・」
と思ったと聞きました。

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そしてその電車こそ、私たちが逃げるときに踏み切りから見えた電車だったのです。あの時に電車が駅に停車していたので、遮断機が降りていて警報がカンカンと鳴っていました。
今にも走ってきそうに見えたので、ダンプカーの運転手さんは電車が通り過ぎるのを待っていたらしいのです。
そして・・・・その後ろに並んでいた多くの自家用車が津波に飲み込まれ、たくさんの命が流されました。

電車は地震の強い揺れで新地駅に停車したのだそうです。
40人ぐらいの乗客の中に、警察学校を卒業したばかりの若いおまわりさんが二人、赴任するために乗り合わせていました。

スーツ姿の二人は、激しい揺れで騒然とする車内を
「大丈夫ですか?怪我をしている人はいませんか?」
と声をかけて廻り、運転手さんに警察手帳を見せて誰も負傷者がいないことを報告しました。

と、まもなく、津波警報が出ていることを防災無線で聞いて知り、避難することを車掌さんに車内放送をしてもらいました。

「大津波警報が発令されました。全員で避難します。乗客の中に警察の人がいます。おまわりさんの指示に従って避難してください」

吉村さんと齋藤さんという若いおまわりさんは、一人が先導、もう一人が最後尾になって一キロ先の町役場まで無事に全員を避難させました。

途中、足の不自由な女性を通りかかったトラックにお願いしたりして、全員が無事に町役場に着いて5分後に津波がやってきました。

私たちが息子の会社に行くことを断念して帰ってきて、高台にある商工会の駐車場に避難しようと坂道を登っていくときに、大勢の人たちがぞろぞろと登っていく横を通りました。あの人たちがまさに列車から逃げてきた人たちだったのです。

乗客の皆さんとわたしたちとが高台に避難してまもなく、濁流は町役場の駐車場まで押し寄せました。まさに間一髪。後5分遅れていたなら、乗客の皆さんも私たちも津波に飲み込まれていたと思います。

若いおまわりさんの的確な判断と迅速な行動が40人の命を救いました。若いおまわりさんに心から感謝したいです。ありがとうございました。

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by asahikanokami | 2011-06-18 21:53 | 避難生活 | Comments(4)

自分と他人との距離

テレビなどで見ると、ダンボールの壁を作りプライバシーに考慮している避難所があります。
新地町の避難所にはダンボールで作った壁がありませんでした。

私がいた保健センターの避難所は、とても狭かったし、そこに一時は150人以上が一緒に生活していたので、壁を作るスペースはとてもありませんでした。

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(寝ているのはおっとっとと息子。この狭さで暮らしていました)

最初のうちはすべてがオープンな状態で生活することが苦痛でした。いつも誰かに監視されているようで気の休まるときがありませんでした。

しかし1週間、2週間と過ぎていくうちに、慣れてきたのと、もうこうなったらこの状態を楽しむしかないという開き直りみたいな気持ちがわいてきました。そう思ったら、けっこうオープンな状態も楽しいのです。

今まで、私はほとんど自宅にこもって仕事をしていたので、ご近所の方とは挨拶ぐらいでそんなに親しくお話をしたことがありませんでした。5.6軒先までのご近所さんならご家族の構成などまで知っていますが、ちょっと離れた方とはお話したことさえありませんでした。

それが避難所では、一つ屋根の下、同じ釜の飯を食べた仲間、そして何より同じ被災者ですべてをなくしてもの同士という連帯感が生まれて、それが大きな絆となりました。

保健センターには釣師地区と中島地区の住民が避難していました。

親切とおせっかいは紙一重。親切も取りようによっては大きな迷惑になります。でも人と人のコミュニケーションには小さなおせっかいは必要かもしれません。

食事のとき、お年寄りに
「運んでくっかい?(運んできましょうか)」
と声を掛け、若い人には
「若いんだからもっと食えっぺ(食べられるでしょう)」
と、乏しい食糧なのにおかずを少し多く分けてあげる。
そんな光景があちこちで見られてほほえましかったです。

人は一人では生くことができません。金八先生は
「人という字は、人と人がお互いに支えあっている字だ」
といいましたが、本当にそうだと思いました。

プライバシーとか個人情報とかいう言葉に躍らされて、今まで他人との間に垣根を作っていたことを反省させられました。もっと積極的に人とかかわっていくべきだったと思いました。

昔のご近所は、お互いにお味噌やおしょうゆを借りたり貸したりするような近い距離でした。今はお隣に誰が住んでいるかわからない遠い距離になってしましました。

避難所で釣師はもちろんのこと、中島の人たちともまるで親類のように仲良くなりました。ものすごく距離が縮まりました。

今、仮設に入って、プライバシーが保たれるようになって良い反面、お互いの距離が遠くなってしまい、せっかく出来上がった絆が切れてしまうことを恐れています。他人とあまりかかわりたくない人もいることでしょう。そういう人はそっとしておいて、一人になって淋しくなってこの先の生活の希望まで無くしている人に、少しだけおせっかいをしたいと思っています。

一人住まいのお年寄りを引きこもりにしないためにも、また自分たちの仮設生活を楽しいものにするためにも、せっかく出来上がった絆が切れてしまわないうちに何かしたいねと、避難所で仲良くなった新地の元気なおばちゃんグループで相談中です。

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*お知らせ*

みなさ~~~ん!!
やっと本日インターネットが繋がりました。

by asahikanokami | 2011-06-15 12:55 | 避難生活 | Comments(18)

自衛隊の皆さんに感謝

今朝、新地町の復旧援助のために駐在していた自衛隊岡山師団の方たちが帰って行きました。

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3月11日の大震災。道路もまだズタズタだったのにすぐに駆けつけてきて、行方不明者の捜索、道路のなどの復旧を開始してくれました。

あれからはや3カ月。その間1日の休みもなく新地町の復旧に汗を流してくれました。ほんとうにありがたかったです。

水道が止まっているときの給水車、避難所生活に慣れるまでご飯を炊いてくれたのもありがたかったです。

道路で自衛隊車とすれ違った時、手を振ると挙手して応えてくれるし、作業中に感謝の言葉をかけると飛びっきりの笑顔が返って来ました。

3ヶ月も一緒にいると、自衛隊の皆さんも新地町民でいるような親近感を覚えているのは私だけではないと思います。

仮設住宅の隣にある総合体育館が駐屯所になっていたので、ご近所さんのような感覚でした。
朝晩挨拶していたのに居なくなると淋しいです。

まだ避難所にいたときのこと。おっとっとが倒れて入院したことがあります。
その時に病室がなくて入院出来ないかもしれないと言われました。
幸いベットにひとつ空きがあり入院でき、おとっとも検査結果が異常なしでした。

なぜ満床なのか不思議でした。
一つは、原発事故で南相馬市以南の病院が閉鎖されているから。
もう一つは、自衛隊員のかたが入院しているからでした。

日頃訓練をしている隊員の方でも、遺体収容作業は精神的にも肉体的にも相当負担だったのでしょう。体調を崩して入院している方がいたようです。

来る日も、来る日も、瓦礫と戦い、遺体を収容する。中には損傷の激しい遺体もあったことでしょう。もしかしたら、生存者がいるかもしれない。一刻の猶予もならないと言う思いで頑張って下さいました。

いくら仮想訓練を積んでいるとはいえ、千年に一度と言うこの津波の現場に立ったとき、想像を越える現実は訓練の何倍も過酷だったことでしょう。

眠れない、食欲がないと体調を崩す人が多かったと聞きました。
それでも1日も早く行方不明者を探しだして、家族の元に返してあげたいと、自分の体力以上に頑張ってくれました。

自衛隊が帰ると聞いて、朝早いのにも関わらず、多くの町民がお見送りに集まりました。

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「ありがとうございました!」
という声に送られて、岡山に帰っていかれました。

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長い間ほんとうにお世話になりました。
私たちの新地町民は、いままでの新地町よりもっと素晴らしい新地町になるようにがんばります。

どうぞ新地町を忘れずに、これからもずっと復興してゆく新地町を応援してください。
私達もお世話になったことをけっして忘れません。
ありがとうございました。

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by asahikanokami | 2011-06-13 12:18 | 避難生活 | Comments(6)