朝日館の女将のてんてこ舞日記


東日本大震災で被災した小さな旅館の女将の日々
by asahikanokami
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復興への第一歩

仮設に住んでいる人たちの一番の不安は、この先の生活がどうなるのだろうということです。
仮設から出た後の生活の不安です。

どこに移転するのだろうか?
自宅を建てることができるのだろうか?
そこで今までのような地域との繋がりを築いていくことができるのだろうか?

政府からは指針が示されず、生活の立て直しはいつになることやらと不安でした。

そこに朗報が飛び込んできました。

新地町が、他の市町村に先駆けて、被災地の買い上げ価格を表示してくれたのです。
国の方針がはっきりしない中、町独自で価格を表示することで、移転の促進を図るという計画です。
土地を買ってもらえれば、移転に弾みが付きます。

元の我が家の土地は、津波をかぶった上に、地盤沈下して危険地域に指定されています。もう土地としての価値は、限りなくゼロに近いのです。

はたしていくらで買ってもらえるのだろうか?
仮設の人たちがあつまるとその話ばかりでした。

そこに、相馬市では坪単価が二万円らしいという噂が流れ
「先祖が営々として守ってきた土地が、たった二万かぁ・・・・・・・」
とがっかりしていました。

さらに
「どうやら固定資産税の評価額の八割に決まったらしい」
と言う噂が流れ
「八割かぁ・・・・・。まぁ、それでも二万円よりは高いから良しとするかなぁ」
と思っていました。

実際に提示された価格は、土地の公示額の八割と言う値段でした。
公示額と言うのは、公的機関が買い上げるときの値段の基準値なそうです。
公示額の七割が固定資産税の評価額なそうです。
今回はじめて、土地には公示額と評価額があると知りました。

そうなんです!
公示額>評価額
公示額の方が高いのです。

この値段で全壊被災した390戸の土地を買い上げてもらうことになりました。
ちょっとでも高く買い上げてほしかったので、少しほっとしています。

まぁねぁ・・・値段的には安いとは思うのですが、それでも土地として価値がほとんどない場所ですので、ほかに買ってくれる人はいないでしょうから、買ってもらえるだけでもありがたいと思わないとなりません。

移転地としては四か所の候補地があります。
今後、移転先や新築するかどうかなどを個別に聞き取って、造成が始まるそうです。
一軒につき百坪を、三十年間格安で貸してくれるそうです。

今、皆で話しているのは
「釣師地区の人たちは、同じところに一緒に移転したいね」
と言うことです。

しかし、はたして何軒の家が建つのでしょう。何人の人が家を建てることができるのでしょう。
高齢のご夫婦は家を建てても仕方がないとあきらめ顔ですし、家を建てる時にローンを組むと二重ローンになると心配している人もいます。

建てた後も、取得税や固定資産税がかかります。
いろいろ考えると、全員がすんなりと移転というわけにはいかないかもしれません。

移転場所に、支援住宅や町営のアパート、そして家賃無料の仮設住宅のような建物の建設を望みます。

また釣師の皆さんと一緒に住みたいです。一緒に引っ越しをしたいです。
これまで皆で力を合わせて行動してきた仮設の住民。
自宅を建てる人、建てられない人が出てきて、仮設の空気が微妙に変わってきていると感じるのは私だけでしょうか。

by asahikanokami | 2012-01-26 11:24 | 避難生活

元旦に

今日は、旧暦の元旦です。

ずっと引きこもって、じっと動かずに食べている、いわばブロイラー生活のおっとっとを外に連れ出す絶好のチャンスです。一時痩せたのに、この頃リバウンドと言うか、ブロイラー的というか、またおなかが付きだしてきました。おまけに治った無呼吸症候群が、又出てきました。

「ほら!初詣!!初詣!!ついでにおばちゃんの卒寿のお祝いに行くから!!」

それでもなんだかんだと言い訳をして動かないのを、半ば強引に連れ出しました。(いえ、かなり強引だったかもしれません)

さすがに初詣の人が多くて、大型バスが何台も連なって来ます。
毎年、元旦にはお参りに来ているのですが、なんだか今年は感慨深いものがありました。

「あぁ、今年もお参りすることができた」
と思いました。震災を経験してから、毎日毎日がありがたいのです。感激屋がますます感激屋になってしまいました。(涙もろくなったのは年のせいですが)

叔母が今月の30日で90歳になります。
30日は会議が入っているので、少し早いけれど今日お祝いをすることにしました。

無類のお寿司好きなので、お寿司とケーキとプレゼントを買って、叔母がいる施設に行きました。
叔母は時々、体調を崩すことがあるけれど、頭ははっきりしていて、記憶力の良さは脱帽します。

昨年、心臓にペースメーカーを入れてからは、ずいぶんと元気になりました。

今日は、気分も良かったと見えて顔色も良く、上機嫌でした。おっとっとと三人でお寿司を食べ、昔の思い出話で大笑いをして帰ってきました。

帰り道、前回のブログのことを思い出し、丸森にある石材屋さんに立ち寄ってみました。
前にも書いた通り、我が家の墓石は伊達冠石という丸森産の石です。この石は、最初は黒っぽい色なのですが、年月が経つと、中に含まれる鉄分が酸化して赤錆色に変色します。
年月で変色する石は、伊達冠石だけで、しかもこの石は、丸森町でしか産出しません。

雪の残る細い山道を登って行くと石材屋さんがありました。
お話を聞くと、伊達冠石は残り少ないのだそうです。

伊達冠石は、卵のような丸い形で採掘されます。酸化しているので、泥をかぶっているように見える表面を磨くと、中から光沢のある黒っぽい石が出てきます。

長方形の棹石を作るとなると、相当大きな石を削らなければならないのだとか。そして今は、そんな大きな石は採れないのだそうです。

丸い形をうまくデザインして、現代的な横長の墓石ならできると言われました。しかも、あまり大きくないお墓ならできるそうです。

他の石で作ろうかとも思いました。
でも、実際に、石を見せていただいたら、やっぱり伊達冠石で作りたいと思いました。

村上家のご先祖もきっとこの石の魅力にひかれて墓石にしたのだと思います。ご先祖の遺志を引き継いで伊達冠石のお墓を建てたいと思って帰ってきました。

あとは、好みの大きさ(予算も含めてですが)の石が見つかるかどうかです。そのうち、雪が無くなったら採掘場に行って石を探してきたいと思っています。

by asahikanokami | 2012-01-23 22:37 | 避難生活

いろいろな場所で

18日は舅の命日でした。

お墓詣りと言っても、お墓もお骨も流されてしまいました。
墓石だけは、菩提寺と護寺会で探してくださいました。
そして、菩提寺の一角に掘り起こした墓石を積み上げてモニュメントのようにしてくださいました。

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中におじいちゃんの首のないお地蔵様も組み込まれてしまっていました。
こうなっては・・・・我が家のお墓を作るときに一緒にお祭りすることはできません。しかたがないので、このまま、ここに置くことにしました。

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たくさんの墓石の中から我が家のお墓を探すのは大変かなと思ったのですが、すぐに見つかりました。
我が家のお墓は、泥石と呼ばれる伊達冠石と呼ばれる鉄さび色した石なのです。

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ちょこんと首を出していました。

良いお天気だったので、仮設には帰らずに、お寺からまっすぐの海まで下りました。
震災以後はじめて、埒浜に行ってみました。

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ここは津波にえぐられて箸は橋脚を残すだけで、家があった場所は海になっていました。

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道も大きく陥没しています。

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車で南下して、安波さまと呼ばれていた安波神社に行ってみました。
土台だけを残してすっかり流された神社を、漁師さんたちが鳥居と神社を再建してくれました。

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釣師浜の船は、たった三艘流されただけで、残りは沖に避難したので無事なのです。
今は、カニやカレイやタラなどが最盛期です。

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しかし、放射能の関係で漁ができません。
漁師さんたちが、どんな思いで、この神社を再建したのだろうと思うと、涙が止まりませんでした。

皆がこんなに苦しみ、泣いているのに、それでも大飯原原発の安全評価を、安全保安院が妥当と評価したというニュースが流れました。信じられないことに、再稼働の手続きが進んでいるそうです。

かと思うと、福島第1原発で原子炉の状況を監視する国の装置の非常用電源が4カ月間外れ、昨年3月の同原発の事故まで放置されていたという、驚くようなニュースまで飛び込んできました。

それでも原発を動かす気なのでしょうか!!
いい加減にしてほしいです!!

by asahikanokami | 2012-01-19 21:45 | 避難生活

10か月過ぎて

今日で10か月過ぎました。

家族を亡くした人は、月命日が来るたびに悲しみを新たにしています。
あの頃は、夢中で、なんだか夢を見ているようで、悲しむゆとりもなかったのかもしれません。

最近になって、ポツリポツリと思い出話をする人が出てきました。

私も、最近は頻繁に朝日館での日々を思い出します。
泊ってくださったお客様のことを思い出します。

この間は、マダラのことを思い出しました。
そしたらマダラが食べたくなったのです。ちょうど、息子がいない日だったのですぐにスーパーに飛んで行って、マダラと白子を買ってきて、タラチリにしました。(息子は、魚は焼き魚しか食べません。タコやイカや貝類や白子などは苦手です)

久しぶりのタラだったので、すごくわくわくしてお料理しました。

お鍋に入れて、煮え始まったら・・・・・・・なんかちょっと違うのです。
えっ!なに??この匂いはなに???

タラのあのおいしそうな匂いがしないのです。
白子を入れたら・・・・・・・やはりちょっと違うのです。
えっ!なにこの白子・・・・・・。

白子は熱が入るとちょっと縮んでふっくらとします。でも白子は縮んだけどふっくらとなりません。
そして一番の違和感は、この香りです。おいしそうな香りがしません。

あれ?あれ?と思いながら、箸を入れて口に運ぶと、やはり、美味しくありませんでした。

今までは、捕れたての、浜に上がったばかりの魚ばかり食べていました。白子などは、生でポン酢をかけただけで食べていました。おいしかったこと!!ほっぺが落ちました。

先日買ってきて煮たカレイも、今まで食べていたカレイとは全く別物でした。

そして思いました。

あぁ、私はなんて幸せな日々を送っていたのだろう。
魚好きの私にとって、朝日館での生活は、本当に幸せな日々だったなぁ。
失ってみて、あの日々がどんなに幸せな日々だったかと気が付きました。

カニもアンコウタコもカレイもサクタロウもスズキもヒラメも・・・・・・と魚の名前を思い出すだけでも、美味しかった思い出がよみがえります。

おっとっとが魚をさばくときに、そばにくっついていて、端っこの方やアラなどをくすねて食べるのが至福の時でした。捕れたての魚は、アラ汁やアラ煮だっておいしくて、おいしくて箸が止まりませんでした。

釣師浜に上がった魚は、どれもおいしくて、どの魚も甘みと弾力と良い香りがありました。

でも、悲しいかな、スーパーで買ってきた魚は、魚の形はしていても、香りもなく、味もなく、弾力もありません。

福島の魚は、まだ数値が高くて漁が禁止です。
でも漁が解禁されても、はたして、買って食べてくれる人はどのぐらいいるのでしょうか?

「毎日、触るのは瓦礫ばっかりで・・・・・たまには生臭い物に触りでぇ~どなぁ・・・・・・」
ご近所の漁師さんの嘆きが聞こえてきます。

代替えの候補地は決まりましたが、元居た土地の価格や代替え地の価格が決まらないので、その先が進みません。国の方針が決まらないので、県も何も決められず、ましてや町も決められません。
方針が示されないままに年を越しました。

小さなお子さんがいる人や、お年寄りがいる人は、早く家を建てたいと思っています。
また、反対に、保険に入っていなかったり、お年寄りのご夫婦だけだったり、一人住まいだったりしている人は、家は建てずに支援住宅に住みたいと思っています。

そのすべてが、国の方針が決まり、代替え地の造成が終わらないと、どうしようもありません。

原発の除染にしても、除染瓦礫の中間貯蔵地にしても、10か月たっても何も決まってないのです。

by asahikanokami | 2012-01-11 13:59 | 避難生活

東北お遍路 こころの道プロジェクト始動

年が明けて「東北お遍路 こころの道プロジェクト」が、いよいよ始動しました。

今年は、全国からここ東北の地に、被災した所に、たくさんのお遍路さんを呼び込みます。

多くの方が、被災地に心を寄せてくださっています。
行って激励したり応援したりしたいけれど、野次馬みたいで行きにくいという人が多いと聞きました。
観光に行くみたいで、心がとがめるという人が多いです。

でも、被災した所は、たとえ観光でも来てほしいのです。この現状を見てほしいのです。私たちのことを忘れないでほしいのです。鎮魂、慰霊、応援、支援・・・理由は何でもいいのです。とにかく、まずはこの現状を見てほしい。

なんとか、余計な気遣いをせずに被災地を見に来てもらえる方法がないだろうか。
そして、多くの人が来てくれることが復興につながらないだろうか。
そしてさらにそれが雇用につながらないだろうか。

もし、多くの人が、気を使わずに来てくれて、それで復興が進み、雇用が生まれたら、東北はきっと元気になる。
行ってみたい人と来てほしい人を結ぶこころの道。
それが東北お遍路 こころの道なのです。

今ある神社仏閣や被災のメモリアルポイントや石碑を利用すれば、新たにお金と時間をかける必要がありません。費用や時間をかけずにプロジェクトを始められます。いつまでも待ていられません。早くしないと、どんどん人口が流出してしまい、被災地は老人だけになってしまいます。

復興には仕事を見つけることが早道です。なんといっても雇用が一番問題なのです。仕事がないことが一番の問題なのです。

お遍路さんが大勢来てくれたら、必然的に雇用が生まれます。宿泊所やおみやげやさんや食事の場所などから元気になることと思います。そしたら、それに付随する、たとえば仕入するお店やクリーニング屋さんなども元気になります。

また、札所になれば、そこに集まってくるお遍路さんと、地元の住人との間に交流が生まれることでしょう。それはきっと、そこに住んでいる人たちの元気のもとになります。そして自分が住んでいるところのすばらしさを再認識するチャンスになるかもしれません。

現在、青森、岩手、宮城、福島に住んでいる40名ほどが賛同の手を挙げて活動しています。
元旦から始まったのは、八十八か所の札所の選定です。

四国のお遍路と明らかに違うのは、宗教に関係なくに札所を決めようということです。
もちろん、宗派にとらわれずに神社仏閣も札所に選びます。その他に、津波に関係する石碑やメモリアルポイントなども含める予定です。

現在、各市町村ごとに2,3か所の候補地を選定する作業に入っています。
これから1000年先まで残る事業にしたいので、選定も慎重です。

今のところ、プロジェクトの活動資金もないので、会員は手弁当と東北を何とかしたいという情熱だけで活動しています。
もちろん、募金もお願いしています。

東北お遍路 こころの道プロジェクトのホームページはこちらです。

私は、他の皆さんの熱い思いに圧倒されながら、一番後ろを必死にくっついて歩いています。
会議に出席すると、皆さんの熱い思いと行動力に驚き、そして勇気を貰えます。世の中にはこのような人がいっぱいいると思うと、まだまだ日本は大丈夫だと心強く思います。そして、東北は必ず復興すると思います。

ただ、福島県には原発と言う厄介者があり、南相馬市からいわき市までは通行できません。

でも、八十八か所には双葉郡も入れます。今は無理でも、いつか、きっといつかは八十八か所の巡礼場所として、廻ることができるようになると信じて。

by asahikanokami | 2012-01-09 22:28 | 避難生活

あの頃のこと

お正月も四日を過ぎました。

息子も明日から仕事です。お正月の間、食べてばかりいたので体が重くなったからと、今日は午後から鹿狼山に登りに行きました。

私は、ご近所さんと今年最初のお茶飲み会です。
そこで話題になったのは、避難所でのこと。

「必死だったどな・・・・・・」
という人がいて、みな無言でうなずきました。にぎやかだったお茶飲み会場は、しーんとしてしまいました。
胸に去来する思いは同じだったことでしょう。

まさかの津波。まさか自分が被災するなどと言うことがあるのだろうかと、信じられない気持ちで避難所に入り、そのまま2か月近く避難所生活をしました。夢を見ているような気持でした。

朝、目が覚めたら朝日館だったとはならず、避難所で目が覚めるたびに、津波が現実だったことを思い知りました。夢だったらと何度思ったことでしょう。

自分の家がどうなっているのかわからないと心配している間に、テレビも何もない部屋に原発の事故が伝えられた時の不安。これから先どうなるのだろうと暗澹たる気持ちになりました。

外出禁止の通達が出て、それでもやはり自宅が心配で、こっそりと見に行ったことを思い出します。
マスクを二重にして、帽子をかぶって行きました。はるか向こうに鉄骨だけになった朝日館を確認したときの悲しさ。
それでも「旅館 朝日館」と言う看板だけは、津波に耐えて無傷で残っていました。それを見たとき、どんなにか勇気をもらったことか。
これから先、何があってもこの看板のように胸を張って生きていこうと思いました。

そして狭い避難所での生活。
届けられる食材だけを使って作る150人の毎日三回の食事は大変でした。

中心になってくれたのは、半谷君と言う若い男性。自分も被災し、お母さんを亡くしているのに、皆のために毎日一生懸命に献立を作ってくれました。彼の陣頭指揮のもと、お母さんたちが料理を作りました。
「何もしないでいると、母のことばかり思い出して辛いから、こうして体を動かしている方がいいんです」

朝は5時には、仕事に出かける人のために朝食と、コンビニも開いてないときはお弁当まで用意してくれたのです。

けなげな彼に触発されて、お母ちゃんたちはがんばりました。彼がいなかったら、きっと、あんなにもがんばることはできなかったと思います。
毎日、毎日、なんとかして少ない種類の食材でおいしい食事を作ろうと皆が必死でした。

避難所にいた人たちは、自宅は土台を残してすべて流された人ばかり。そして多くの人が、家族や親類や友人を亡くしています。

泣いたら、愚痴をこぼしたら、自分が崩れてしまいそうで、冗談を言い、楽しい話だけをして、大笑いしながら頑張りました。

みんな必死で生きていました。

最初のころは歯ブラシもなくて、タオルもなくて、もちろんお風呂もなく、下着の着替えもなくて、今思うとすごく汚かったと思います。

誰も、文句ひとつ言わずじっと耐えて生活していました。小さな子供さえ、わがままを言わず我慢しているのがいじらしかったです。

「みんな、必死だったどな・・・・・・・・」

無言でうなずいた人全員が、きっと、あの頃の自分を褒めたいと思っていることでしょう。
頑張ったよね。どの人も、頑張った。必死に頑張った。

だから、きっと、今年は良いことがいっぱいあると信じましょう。

by asahikanokami | 2012-01-04 16:25 | 避難生活

今年もよろしくお願いいたします

20012年が明けました。

皆様、どのようなお正月を過ごされましたでしょうか。

私は、手持無沙汰な、ぐうたらのお正月でした。

いつもなら、12月は忘年会で忙しく、その合間を縫って大掃除をし、お墓掃除をし、お仏壇や神棚にお正月を迎える準備をし、おせちを仕込み・・・・・と目の回るような日常でした。

正月花を活け、餅花を飾り(我が家ではお正月のしつらいに、小正月に飾る餅花を、お正月から早々とかざっていました)ホッとする暇もなく、初日の出を見るお客様を迎え、新年会へと突入するのが例年でした。

自分の家でお正月を祝うのは新年会が一段落する頃。手伝ってくれた人たちと日帰り温泉に出かけるのが楽しみでした。

それが、忘年会の客様もなく、宿泊客もなく、大掃除もアッと言う間に終わり、おせちも家族が食べる分だけの用意ですみ、花を生けるスペースもなく、当然お飾りもなく、暇な年末年始になりました。

紅白歌合戦をコタツでゆっくり見たのは、何十年ぶりでしょう。朝日館に嫁いで初めてかもしれません。と言うことは・・・・・40年ぶり??ひゃぁ~~~!!

初日の出を拝みに行こうと思い、目覚ましをかけたのですが、ベルを止めた後、二度寝をしたみたいで、目を覚ました時にはお日様が出た後でした。なんというぐうたらな私でしょう。

大晦日は、同級生から届いた岩泉短角牛のすき焼きに舌鼓を打ち(ものすごくおいしかったです)元旦はお雑煮とおせちで祝いました。

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一応すべて作ったものばかりです。市販のものは、かまぼこだけかな。(これも笹かまをいただいたので、紅白のかまぼこでなく、白一色のかまぼこになりました)テーブルが小さくて並びきれなかったのですが、この他に栗きんとんと花豆を煮たものを作りました。

我が家用なのと、保存するほどの量を作らなかったのですべて薄味です。メタボのおっとっとがいるし、最近は息子の下腹も出てきたので、特に砂糖の使用量を減らしています。

そうそう、31日の夕方に
「一人で年越しする人がいるから、集会場で皆で年越しそばを食べませんか?」
と仮設の自治会長さんの提案で、集会場に集まりました。

ちょうど年越しそばを打とうと思って、そば打ちの道具を出していたので、それならと10人分のそばを打って集会場に持っていきました。

自治会長さんも、オードブルやおそばをたくさん用意してくれました。でも、集まったのはいつものメンバー。15人ほど。出てきてほしい人は出てこず、家族がいる人ばかりが集まりました。
まぁ、それなりに盛り上がり、楽しい宴会になりましたが、本当は一人で住んでいる人に参加してほしかったなぁと残念です。

仮設のお正月は静かです。
特に今年は喪中の人も多く、おめでとうを大声で言うこともはばかられます。

でも、やはり、こんな時だからこそ新年を祝いたいです。

何事があっても、どんな時でも、いったん一年にピリオドを打ち、新しい気持ちでまた一年をを始めるという、お正月と言う行事は素敵です。

去年にはいったんピリオドを打ちましょう。そして新たな気持ちで、元気に明るく一年を始めます。

みなさん、今年もよろしくお願いいたします。

by asahikanokami | 2012-01-03 16:16 | 避難生活