朝日館の女将のてんてこ舞日記


東日本大震災で被災した小さな旅館の女将の日々
by asahikanokami
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東北お遍路のご報告

東北お遍路の現在の様子をお知らせいたします。

東日本大震災の後、雇用が減り、人口の流失が止まりませんでした。
また、被災地に行ってみたいけれど観光で行くのは気が引けるという声も聞かれました。
さらに、東北では、まだまだ何も復興が進んでない時期に、ほかの地域との、震災に対する温度差も感じました。

これは、もう、多くの人に被災地を見てもらうしかない。来てもらうしかない。多くの人を被災地に呼び込むことで、地域おこしをしよう、風化を防ごうということになり「東北お遍路~こころの道~」プロジェクトが立ち上がりました。

2011年9月のことですから、あれから2年半の月日が流れました。

被災地に公募でお遍路もポイントを作り標柱を立て、多くの人に廻ってもらうというこの事業は、簡単に進むと思っておりました。
それが、思いのほか簡単ではありませんでした。
被災地四県が手をつなぐというプロジェクトは、今までありませんでした。たぶん「東北お遍路」が初めてだと思います。

四県にまたがっているために、会議をしても思うように役員が集まれません。また助成金を申請しても、各県ごとならいただけても、四県にまたがるともらえないのです。資金が少ないので、役員は自腹で活動しています。

それでも、それぞれに熱い思いがあって、お遍路道ができたらきっと地域活性に繋がると信じて活動しています。

今年は、やっと二本の標柱が経ちました。一本は「新地町龍昌寺の釣師観音」
ここは、津波で流されたお墓を探し出し、掘り起こして慰霊のモニュメントを作りました。

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もう一本は「相馬市津神社」です。
ここは、昔から「津波の時はここに逃げたら助かる」と言い伝えられている場所です。今回も百人ほどがここで助かりました。
天皇、皇后両陛下が被災地慰問においでになった時に、相馬市長がその話をしたら、ぜひそこに行きたいとおっしゃったそうです。警備の関係で実現しませんでしたが、何度も
「ここから津神社は見えませんか?」
とお聞きになったそうです。

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11月には、青森県の八戸市から岩手県の岩泉町まで、公募のあった場所を調査してきました。勝手に建てるわけにはいかないので、推薦者や地元の方、そしてそれぞれの自治体にお話を聞きに行きました。

中でも、八戸市の蕪島神社には、ぜひ建てて欲しいと言われました。
今は、道が繋がっていますが、かつては島だった蕪島。
右と左から津波が来て、鳥居の前でぶつかり大きな水柱が上がったそうです。
誰もが鳥居が流されたと思ったのに、津波が収まったら鳥居は無事だったそうです。
前日まで6万羽近い海猫がいたのに、その日の朝は一羽もいなくなって不思議だと思ったら津波がきたそうです。

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岩手県の野田村でも、村長さんにぜひ建てて欲しいと頼まれました。
愛宕神社の大鳥居は村有の土地なので、そこに建てて欲しいと言われました。
多くの遺体が、そこまで流れ着いたそうです。慰霊のためにもぜひと言われました。

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来年は、この二箇所には標柱が立つと思います。さらに、宮城県の山元町や石巻市などにも建てたいと準備中です。

点が線になり、一本の道が出来上がり、その道を多くのお遍路さんが歩いてくれたなら、地域の復興にはずみが出て、また、被災地とお遍路さんとの絆もできると思います。

よく間違われるのですが、東北お遍路は宗教とは無関係です。
これから先もずっと語り継いでいきたい、津波被災のストーリがある場所をポイントに選んでいます。
支援してくださる企業や、応援して下さる個人会員も募集しています。
どうぞ「東北お遍路~こころの道~」を応援してください。

# by asahikanokami | 2013-12-25 12:23 | 避難生活

福島県に原発ができたわけ

ずっと更新もせず、コメントのお返事も書かず、ここを覗きにもこず、無責任極まりない状態でした。
申し訳ございません。
フェイスブックに書いていると、それだけで満足してしまって、ブログはいいかなぁと思ってしまっていました。
でも今日は、やはりブログに書かなきゃと思っています。

昨日、東北学院大学と新地町教育委員会の共催で「歴史としての東日本大震災in新地」というシンポジュームが開催されました。
私もパネラーとして参加し、紙芝居も披露することができました。

その中で相馬市史を研究しておられる佐々木秀之先生の講演を聞いていて、背中が寒くなりました。
これは絶対に忘れてはいけない。多くの人に知って欲しい。
そう思ったので、ここに記録しておこうと思います。

明治38年に、それまで自由に作っていた塩が、塩専売法の公布で勝手に作れなくなりました。
塩田は政府の管理下におかれました。
しかし、太平洋戦争の勃発により、塩不足になったことで、昭和17年には自家用製塩製造許可法ができて、自由に作ることができるようになります。

それに伴い、福島県沿岸でも盛んに塩が作られることになりました。
相馬市や新地町などでも相馬塩業という会社ができて、製塩業をはじめました。

戦後、相馬塩業の社長の釘本さんが福島市長になったことで堤康次郎さんに代わります。(相馬塩業といっても、相馬市や新地町以外の人が経営していたんですね)
財閥の手に渡りました。
しかし昭和24年に日本専売公社が発足。塩は専売となりました。

相馬塩業は経営不振に陥り昭和33年に事業が打ち切られました。
同じようなことが、福島県沿岸の市町村でも起きました。

その後、塩田や製塩工場用地は、いろいろな会社の手を経て、東日本興業の所有になり、やがて相馬共同火力発電の手に渡り、火力発電所が建設されました。

新地町は、原発建設に反対したので火力発電所になりましたが、他のところには原発が建つことになったのです。

昭和38年ごろの新聞を見ると、原町市(現南相馬市)の当時の渡辺敏市長などは、原発建設に手を上げていたことがわかります。

福島第一原発の場所は、もともとは旧陸軍の飛行場だったところに、国土計画興業が塩田と製塩工場を造った場所だったそうです。

佐々木先生は最後に、こんなふうにおっしゃいました。

「今、被災した沿岸は、国や市町村が買い上げ、海浜公園になる計画が進んでいます。それはすばらしいことです。しかし、一つ落とし穴があります。もし、市町村が経済的な理由でその場所を一括して売ったなら、何が建つかわからないということです。歴史をしっかり学び、次世代に伝えていくことが大事です」

国は、自分たちの都合で法律を作り、塩を専売にして利益を得て、塩が足りなくなると法律を変えて自由にし、また、利益を得るために法律を改正して専売にして多くの会社をつぶし(会社をつぶすことが目的でなかったとしても)てきました。
お米もそうです。TPPが決まれば、農作物のみならずいろいろなものに影響が出ることでしょう。

被災地に造られる広大な公園。そして不必要なほどの高さの堤防の建設。
二度と、これらを原発建設に利用されないように、しっかりと見張っていこうと思います。

# by asahikanokami | 2013-12-15 10:43 | 避難生活

紙芝居祭り

いっぱい書きたいことがあるのに、書く暇が無い日が続いています。

何が忙しいって・・・・まず、毎週月曜日は、エコたわしの活動日。編む毛糸を仕入れ、終了後のお茶会の用意をし、注文があれば荷造りして発送。なにせ、私はOKB(小川仮設ばばぁ)の雑用係なのです。

それから、東北お遍路。お遍路のポイントを調べると言う仕事があります。ネットでポイントの募集をしたら、98箇所も集まりました。そのポイントが、本当に東北お遍路のポイントにふさわしいのか、精査が必要なのです。

そして新地町の復興のワークショップや会議。私は、都市計画課と復興推進課と教育委員会の三箇所の委員になっています。といいますか、にしていただきました。
自分の住んでいる町、住んでいた場所が、どのように変わっていくのか、変えていくのか、かかわっていきたいと思ったからです。

そして、その上、震災体験をあちこちで語らせていただいています。数えたことが無いので、正確な数はわかりませんが、二年半で百ヶ所を越える場所で語らせていただきました。

その上さらに、紙芝居祭りにも参加したのです。
これは、放射能で苦しんだ過去を持つ広島から、同じように苦しんでいる福島に、元気を届けようと紙芝居100本を作って贈ってくださっています。
すでに80本近い紙芝居が届けられました。

東北街物語紙芝居化100本プロジェクトさんから届いた心のこもった紙芝居。これを一堂に集めてお披露目をかねた紙芝居祭りを9月1日に開催しました。
相馬市の紙芝居チームが中心になって、南相馬市と新地町が一緒にお手伝いをしました。といっても、新地町で準備に参加したのは私一人です。

当日は、民話の紙芝居の「先祖からの宝物の部屋」と、郷土の偉人伝の紙芝居の「郷土の誇りの部屋」と、震災を伝えたいと作られた紙芝居の「未来に語り継ぐ部屋」の三会場で、それぞれ10の作品を読みました。

また、ホールでは紙芝居を使った朗読劇、廊下ではゲリラ紙芝居なども上演されました。

私は、「未来に語り継ぐ部屋」の責任者でした。
震災紙芝居は、重い内容が多く、はたして、みんなが聞きに来てくださるか心配でしたが、一番多く観客が入ってくれました。中には泣いてくださる人もいて、やってよかったと、読んでいる私のほうも泣きそうでした。


そして今回は、私が文を書いた「命の次に大事なもの」をおっとっとが読みました。私が「避難所物語」という、避難所での知的障碍者の方の話の紙芝居を読むことになったので、おっとっとの出番になりました。
横浜からおいでくださった西原和子さんという方がバックミュージックをつけてくださったので、おっとっとの初舞台が引き立ちました。

夫婦紙芝居???
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会場にはたくさんの客様
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フィナーレはものすごい熱気
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福島の有名な昔話の語り部の横山幸子先生と川辺洋子先生がきてくださり、その前で紙芝居を読むのに緊張しました。
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# by asahikanokami | 2013-09-21 09:12 | 避難生活

仮設の迎え火、送り火

元住んでいた釣師地区では、昔からお盆の13日には迎え火を、16日には送り火を、自宅前で焚く風習がありました。

仮設に住むようになって、最初のお盆は、多くの人たちの新盆でした。
仮設は、多くの人が住めるように、通路を狭くしてびっしりと建物が建っています。

その前で送り火や迎え火を焚くのは危険です。
でも、新盆だから、迎え火を焚いて亡くなった人の魂に帰ってきてもらい、送り火を焚いてまた帰っていってもらいたいと、多くの遺族が願いました。

行政から
「本当は、仮設内で火を焚くことはできないのだけど、見なかったことにします。そのかわり、火の用心だけは厳重にしてください」
といわれ、新盆の送り火を焚きました。

そして今年は、仮設で迎える三回目のお盆です。

いつものように、通路で迎え火を焚き、花火をし、スイかを切って食べました。
なんだか今年は、まきの数が多くて火に勢いがあります。こんなに大きな炎ですから、ご先祖様も迷わず我が家に帰ってきてくれたと思います。

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火を焚きながら、空に向かって
「こっちが我が家ですよ。釣師に行ってもお家はないのよ」
と娘に語り掛けました。

迎え火が終了してから
「今年は薪が多かったね」
と言ったら、おっとっとが
「あっ!」
と大声をあけました。どうやら送り火の分まで焚いてしまったみたいです。
ええっ・・・・・・送り火はどうするの・・・・・

「大丈夫だ。二束残っていた。なぁに、盛大にご先祖様をお迎えして、ひっそりと送れば良いべ」
と、いかげんな自治会長(おっとっとが自治会長です)

迎え火当日。いい加減な自治会長をサポートしている役員の人たちが、あちこち手配して薪が集まりました。
いつもよりも大きな炎で送り火がたかれました。

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今年の末には、全員が代替地を取得します。そしたら来年には自宅建設ができます。

仮設での迎え火、送り火は、今年が最後になることでしょう。

行く夏を惜しむように、マイ缶ビールを持ち出して飲み始めるおとうさんたち。
いつまでも立ち話をしているおかあさんたち。

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夜がゆっくりと更けていきました。

# by asahikanokami | 2013-08-22 13:41 | 避難生活

伊達と相馬の戦い

先月27日に新地町の相馬共同火力新地発電所内のわくわくランドで、「伊達と相馬の合戦」が行われました。

実はこの日は、相馬野馬追い祭りの初日なんです。
野馬追いの出陣式を見た後、観光客は海に流れてきて、潮干狩りや海水浴を楽しむのが例年のことでした。

しかし、震災後は海で遊べなくなりました。

そこで、出陣式の後、何かイベントはできないかと、相馬と新地の若者たちが立ち上がりました。
新地町は、その昔、相馬藩と伊達藩が、陣地を巡って争ったところ。
現代でも、綱引きをして友好的な戦いをしようじゃないか!!

綱引きだけではなく、合戦に参加する人全員が合戦に参加できるようにと、いろいろな趣向が凝らされました。

まず、受付で伊達藩(イメージカラーは黒)の応援か、相馬藩(イメージカラーは赤)の応援か決めます。
イメージカラーの鉢巻きを締めて、合戦の参加券をもらいます。これで準備はオーケー。

いよいよ合戦が始まりました。

まずは、各藩の応援団長にまつわる紙芝居合戦。
伊達藩は、新地町に伝わる昔話から、応援団長は「鹿狼山の手長明神」です。
一方、相馬藩は丹下左膳です。小説の中では丹下左膳は、相馬藩の武士だったんですね。町おこしにと、相馬市磯辺に「丹下左膳の碑」が建てられました。
ギネスに登録されるようにと、大きな碑を用意したら、建設予定地が県立公園だったので高さ制限がありました。
そこで、しかたなく深く埋めて、高さ制限をクリアしました。
それが幸いして、今回の津波にもびくともしませんでした。
その紙芝居を、碑の建立に尽力なさった佐久間さんが読みました。
新地町の「鹿狼山の手長明神」は私が読みました。
合戦の結果は9対1で伊達藩の勝ちでした。やったね!(私は紙芝居を読んでいたので写真はなしです)

メインは、やはり綱引きです。
小さいお子さんたちはかわいかったです。

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圧倒的に強かったのは、相馬消防署のメンバーです。合戦というので、ヘルメットを兜にして参加してくれました。

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相馬藩のボランティアグループが対戦した時に、人数を2名増やしたのに、負けてしまいました。

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そして何と言っても、一番盛り上がったのは、伊達武将隊のみなさんです。
朝早くから相馬市内でチラシを配ってくださったり、一日中笑顔で参加者との写真撮影におうじてくださいました。
さすが、自らを「おもてなし武将隊」と名乗るだけのことはあります。正宗様も必死に綱を引きます。

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さて、綱引き以外の合戦はというと、まず射的合戦。
お互いに、敵陣の武将めがけて鉄砲を撃ちます。

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それから、ちびっこに大人気だったのはスーパーボールすくい合戦。
スーパーボールの大きさや色で点数が入ります。

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巨大だるま落としもありました。
こちらは、なかなか難しかったようで、成功した人は少ないようでした。

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そしてフィンガーフード合戦。
相馬と新地のおいしいものが、一口づつ乗っている紙皿を、おいしい藩のほうに入れます。

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さて、すべての合戦が終了して、僅差で相馬藩が勝ちました。

私は、室内でエコたわしの並べて、毛糸代の支援をお願いいしていました。(わくわくランド内では物品販売ができないのです)
ご寄附200円に対して、お好きなエコたわしを一つお礼にさし上げました。
室内にいたので、外で歓声が聞こえるたびに飛び出して、写真を撮りました。
時々しか見ることができませんでしたが、参加してくださった人たちは思いっきり楽しんでいるように見えました。

この日の入場者は、500人ぐらいだったそうです。
何よりも、相馬市と新地町の若者が、力を合わせて大きなイベントをしたということが、一番有意義でした。

# by asahikanokami | 2013-08-01 12:55 | 避難生活

あらまぁ!7月も終わりだわ!!

あっという間に、6月が終わり、7月も明日を残すのみになってしまいました。

その間、何も更新しなかった私。すみません・・・・・・・・・。

もう!忙しい!忙しい!と、毎日を過ごしています。
いろいろな復興計画のプロジェクトに参加したり(三つも)あちこちに呼ばれて、紙芝居を読んだりと、ほとんど家を留守にして飛び歩いています。

その間にも、新しい家を建てる予定の代替地の造成も進んでいます。家のおおまかな設計図も出来上がりました。おっとっとは、家が建つのが待ちきれないらしく、一日おきぐらいに造成がどこまで進んだか見に行きます。

11月ごろには造成が終了する予定です。
家が建つのは来年の春ごろでしょうか?それでも楽しみです。

新地町では、100坪を30年間、無償で貸してくれるそうです。100坪よりも広い土地がほしい人は、100坪を超える分を買うようになります。私たちが希望している団地では、ほとんどの人が100坪以上を希望しています。希望通りの広さの土地をもらえるのは、ほかの市町村では考えられないことです。
どこでも、100坪までとか、場所によっては50坪までなどと制限があるのが普通なんだそうです。

新地町は、町民の中から
「困っているときはお互い様だから」
と、持ち山や畑を提供してくれる人が相次ぎました。
そのおかげで、新地町の被災した人全員が、仮設を出てこの次に住む場所が決まりました。

我が家の予定地。
今年の一月に、山の木が切り倒す作業が始まりました。

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3月には、ほとんどの木が切り倒されて、運び出されていました。
切った材木を、家を建てる材料にしたら良いのにと思ったら、原発事故の影響で使えないのだそうです。
機械で、細かいチップにして運んでいました。もったいない話です。

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6月には、山がだいぶ低くなっていました。
この山にも、たくさんの動物や鳥が住んでいたことでしょう。
私たちのせいで、住む場所を奪われて、山から追い出されてしまいました。
本当に申し訳ないと思います。いつも、造成地を見学に行くときには、手を合わせて
「ごめんなさいね」
とあやまります。

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7月になったら、どんどん低くなっていた土地が、少スピードが鈍りました。
どうやら、我が家のあたりは岩盤のようです。
地震の時に揺れないで済むかなと嬉しい反面、庭に木を植えても根を張ることができるのか心配です。

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左の土の山のところあたりが、たぶん、我が家が建つ予定地です。

# by asahikanokami | 2013-07-30 20:33 | 避難生活

除幕式

コメントのお返事も書けないでいます。ごめんなさい。
今日は、エコたわしの活動日。明日は、ガーデニング教室と取材。あさってには、まとめてお返事が書けるでしょうか???それとも?????

さて、昨日は東北お遍路のポイントの第一号標柱の除幕式でした。
雨が降ったらどうしようと、そればかり心配しておりましたが、良すぎるほどの上天気でした。

東北お遍路プロジェクトの新妻代表があいさつをして、町長さんや北畑墓地会の会長さんや龍昌寺ご住職の祝辞があり、私が経緯説明をしました。

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なぜなら、ここをポイントにと推薦したのは私だからです。

あの日。すべてを飲みこんで行った津波は、自宅や旅館だけでなく、お墓をも連れ去って行きました。
3月20日。お彼岸の中日に墓地に行くと、そこは瓦礫と砂と泥しかありませんでした。
おっとっとと二人で、ずいぶんと探しましたが、お墓を見つけることはできませんでした。

何もなくなった場所に、お花とお線香を手向けました。
悲しくて涙がこぼれました。長いこと手を合わせても、空しくて、空しくて涙が止まりませんでした。
お墓の中にあったはずの、娘の遺骨はどこに流されたのでしょう。
「海に散骨したと思うことにするべ」
と、おっとっとは言いましたが、それでも空しさをどうすることもできませんでした。

その年の7月。墓地会の皆さんとお寺さんとで、北畑墓地の墓石を探し出して、すべてを龍昌寺に運んだという話を聞きました。
急いで行って見ると、多くの墓石が並んでいて、その中に我が家のお墓もありました。
行方不明の娘と再会したような気分で、嬉しくてお墓に抱き着いて撫で回しました。

その墓石をすべて積み上げて、その上に観音様が祭り「釣師観音」と命名されました。
新しくお墓を作りましたが、ここを参りすると先祖や娘に会ったような気がします。

また結婚して新地に住み始めたころ、慣れない生活に悪戦苦闘していた時に、暖かく励ましてくださったご近所の方で、先にお空の上に行かれた方たちの笑顔に出会う気がします。

復興には、道路も住宅も必要ですが、心の復興も必要だと思っています。
我田引水になるかもしれませんが、東北お遍路というこのプロジェクトは、改めて、被災者にとってものすごく力になっていく事業だと実感しました。

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ここが第一歩。
そして第二歩、第三歩と道が繋がって行ったなら、被災者とお遍路さんと繋がって、地域の復興の何よりの推進力になると確信します。

昨日の青空のように、すべての人の心が雲一つなく晴れ渡るように願って、次の一歩に繋げたいと思います。

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# by asahikanokami | 2013-06-10 11:03 | 避難生活

東北お遍路 第一号の標柱

明日は、いよいよ「東北お遍路」のポイントの第一号の標柱が建ちます。
お天気も良さそうです。

第一号の標柱が建つのは、新地町の龍昌寺の釣師観音です。
ここのポイントの推薦者は、何を隠そう私です。

東日本大震災で自宅と営んでいた旅館だけでなく、お墓も流されました。
そこには、おっとっとの両親や先祖だけでなく娘も入っていました。
震災直後の春のお彼岸。何もなくなった墓地で、心まで空っぽになったようで涙が止まりませんでした。
その後、龍昌寺さんと墓地会の人たちが、すべての檀家のお墓を探し出し、お寺の境内に積み上げて、観音様を祭って「釣師観音」というモニュメントを作ってくださいました。釣師というのは、私たちが住んでいた地域です。

千の風になっているのだから、お墓は無くても良いのかもしれませんが、凡人は何か手を合わせるものがほしいです。
龍昌寺さんからは、無償で新しい墓地をいただきました。また
「家を無くし、家族を亡くした人からお布施は頂くわけにいかない」
と、震災で亡くなった人たちには、お布施なしで告別式をしてくださり、戒名もいただきました。


新しいお墓を建てました。
元のお墓と同じ、伊達冠石で作りたいとネットで探したら、伊達冠石は山田石材計画さんの採石場からしか産出しない石だったのです。
山田石材さんと尋ねて聞いてみたら
「もう、その大きさのお墓を作ることができるほど大きな石は採れません」
というお話しでした。
がっかりしました。仕方がないので、違う形のお墓にしようかと、山田さんの展示場に行ったら、おっとっとが指をさして叫びました。
「家のお墓がある!」
なんと展示会場の隅に、そっくりのお墓が展示してあったのです。売れ残っていたお墓でした。
まるで私たちが来るのを待っていてくれたようでした。
無事に、元の様なお墓が建ちました。

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その山田石材計画さんの社長さんに
「東北お遍路の標柱をご寄付いただけませんか」
とお願いしたら、快く引き受け頂き、想像以上の素晴らしい標柱を作ってくださったのです。

高さは2011センチメートル、幅が311センチメートルと、東日本大震災の2011年3月11日にちなんだ寸法になっています。
その柱の上に、伊達冠石の丸い石が乗った素晴らしい標柱です。
伊達冠石は、まるで宇宙のようであり、地球のようであり、人間の優しい心の丸さのような感じです。

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お墓が流され、新しい墓地をいただき、田んぼの泥の中から墓石を探し出してモニュメントができ、東北お遍路のポイントに推薦し、新しいお墓を造り、その石屋さんに標柱を作っていただきました。
次から次と繋がって、明日を迎えます。とても不思議なご縁が繋がって明日になります。

そして・・・・・今日は娘の命日でした。明日から14年目になります。
もしかしたら、娘がいろいろな方とのご縁を繋げてくれたのかな?
もしそうなら、仕切りやだった娘に感謝です。
菜穂、ありがとう。

明日の標柱の除幕式が楽しみです。

# by asahikanokami | 2013-06-08 23:32 | 避難生活

紙芝居作り

23日に、相馬市報徳社の渡辺さんをお招きして、紙芝居製作&読み方講習会が行われました。

集まったのは、漁業組合長、おっとっとの男性二人と、小川仮設の選りすぐりの美人お母ちゃんたち。
漁師さんの奥さんたちです。それに新地町の広報の西牧さんと図書館の目黒さんもお呼びしました。
それから福島民報新聞の記者の方が、取材に来てくれました。
特別ゲスト(?)に、自転車で世界を廻っている西川さんも飛び入りして、楽しい紙芝居製作が始まりました。

最初は時間が来ても、皆がなかなか集まらず、仕方がないので、いる人だけで始まりました。
渡辺さんが、お手本を見せてくれます。

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そのうち、少しづつ人も集まり、賑やかになってきました。

しわにならないように、台紙に慎重に貼ります。
それから、台紙の周りの余った部分を切り取ります。

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それぞれが一場面づつ受け持ったので、どんな話なのか良くわからないまま、出来上がった紙芝居。
「漁業組合がある!」
「朝日館だべした」
「朝日丸?そんな船は無いべ」
大騒ぎをしながらの作業でした。

出来上がった紙芝居を床に並べて記念写真を撮りました。
遅れて参加する人、途中で帰る人。
出たり入ったりしながらも、完成しました。

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出来上がった紙芝居を読みました。

初めは興味津々で、にぎやかだった部屋が、次第にしーんとしてきて、そのうちに鼻をすする音が聞こえてきました。

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海で漁師さんたちが、命がけで津波を乗り切っていた頃、陸では、奥さんたちがどんなにか心配で、心細く、夫の無事を必死に祈っていたことでしょう。

思い出して泣いている奥さんたち。

辛い思い出です。
でも、紙芝居の最後に、書いたように
「忘れたいけど、忘れない。忘れてはなんねぇ」
と思います。

命が大事なこと。家族が大事なこと。人と人のつながりが大事なこと。
津浪が教えてくれました。

嬉しいことに、来月号の新地広報の表紙は、私たちが飾ることになりそうです。
広報に載ったなら、新地の人たちに、広島からすでに4本も紙芝居が届いていることを知ってもらえます。。
広島の人たちに感謝です。

自分たちの物語を紙芝居にして読むことで、自分の心と対話したいと思います。
まっすぐに顔を上げ、一歩前に踏み出すエネルギーを受け取りたい。

昔話からは、先祖の知恵と誇りを。
パーソナルストーリーからは、勇気と元気を。

# by asahikanokami | 2013-05-27 19:46 | 避難生活

命の次に大事なもの

5月こそ、ちょっとゆっくりしようと思っていたのに、ますます忙しい毎日・・・・・・。
コメントのお返事はまた少し先になります。
連休で帰省した方や新地を訪ねてこられた方に
「ブログ楽しみに読んでます」
と言われるたびに、さっぱり更新もせず、コメントのお返事も書かずにいて、汗が出る思いです。

今日は今日とて、朝から叔母の部屋(施設)の掃除をしてきました。1月に脳梗塞で倒れて半身不随になりましたが、来週やっと退院することになりました。部屋が荷物で埋もれているので、捨てるものは捨て、必要なものは妹の家に預かってもらい、元の広々とした部屋にしました。
なにせ、これからは車いすで移動になりますので狭いと困るのです。2,3日かかると思いましたが、妹夫婦とおっとっとと4人で、ほとんど休むことなく片づけたら夕方までにきれいになりました。

今日のブログは、長文です。
なぜなら、紙芝居をご紹介したいからです。この紙芝居は、広島県の方たち「東北まち物語紙芝居化100本プロジェクト」という所が、福島の人たちを元気つけようというので、100本の紙芝居を作って送ってくださることになっています。すでに60本以上が完成して送られています。すごいことです。

新地にも「鹿狼山の手長明神」「あんこ地蔵」「鬼婆伝説~フクシマレジェンド~」の三本が送られています。
そして4本目が出来上がりました。この紙芝居の原案は私が書きました。
陸地での被災体験は、あちこちで語られています。
しかし、海上での津波の様子はあまり知られていません。

何人かの漁師さんに聞いた話を、一つのお話にまとめました。
ですからこれは、ノンフィクションに近いフィクションです。


「命のつぎに大事なもの」

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あの日、三月十一日。
大地震の後に大津波警報が出た。
その時俺はすぐに浜に馳せで行ったんだ。船を沖出しするためにな。



漁師が命につぎに大事なものは、船だぁ。まず一番に船を守んねばなんねぇ。
船を守るには、沖に持って行くのが一番だ。
津波は、海の浅いところほど波が大きくなるからなぁ。沖に持っていくのが一番なの
さ。
船さえ守れば、明日からまた漁に出られる。命をつないでいける。
漁師が命のつぎに大事なものは、船よ。
なんつったって船が大事だぁ。



すでに港の波は引き始めていた。
完全に水が引いたら、船は出せない。
俺は焦った。
大急ぎで船を岸壁につないでいる綱をほどいて、全速力で港を出て沖を目指した
んだぁ。
仲間の船も、次々と後に続いてくるのがわかった。
みんな、自分の船を守るのに必死だったんだぁ。



「津波が来たどぉ~」
「北の方からきたどぉ~」
船の無線で仲間が津波が来たことを教えてくれた。
あわてて北を見たら大きな波が見えたんだぁ。
いやぁ、五十年も漁師をしてっけんと、あんなおっきな波は見たことねぇ。
それはまるで水でできたビルが覆いかぶさってくるような波だった。
さすがの俺もビビったのよ。どうやってこの波を乗り越えたら良いんだべ。



長年の勘で、まっすぐ波を乗り越えたら、てっぺんに行った時にまっさかさまに落と
されて、船は木っ端みじんになると知っていたからなぁ。
ほんで「みんな、良く聞け。ななめ四十五度に全速力で登って波を突っ切れ。てっぺ
んまで登ったらエンジンを切るんだど。そのままだと波の向こうまで飛んでいくから、
必ずエンジンを切れよ」
と無線で指示したんだ。
中には、まだ経験の浅い若い漁師もいっからやぁ。
ほんで、なんとか第一波は乗りきった。



ほっとする間もなく、第二波が来た。
第二波は小さかったから難なく乗り越えた。
やれやれと思ったら無線から悲鳴のような声が聞こえた
「南を見ろ~!」
南を見て、俺は言葉を失った。
目に映ったのは、波ではなかったんだぁ。
それはもう波ではなく、水の壁だった。おそろしく高い水の壁だった。
今までこんな波を見たことがない。これはもうどんなに全速力で登っても越えること
はできねぇ・・・・・。
俺は覚悟した。



俺の人生もここまでだ。
その時、いろいろなことが頭の中をよぎった。
俺は一人で笑った
「よく、走馬灯のように思い出すって言うども、あれって本当のことだったんだなぁ」
笑っている場合ではねぇども、なぜか笑えたんだ。
思い出してみたら、俺の人生もまんざらでなかった。いろいろなことがあったども、
まぁいい人生だったと言ってもいいべな。
俺は、自分の体をロープで船に結び付けた。

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せめて遺体だけでも見つけてほしかったからなぁ。
それから家族の名前を一人一人呼んだ。孫、娘、息子、息子の嫁。
「ゆうま!さき!ひろと!かずこ!たかお!みちこ!いままでありがとうな!」
そして最後は、やっぱり女房の名前だった
「てつこ!いままでありがとうな!おめぇと一緒になって俺は幸せだった。ありがとう
な。後を頼むど」
そう大声で叫んで、俺は死を覚悟して、水の壁に直角に全速力で突っ込んでいった。

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それから、どのぐらい時間がたったんだべ・・・・・。
津波に突っ込んだ瞬間に、俺はその衝撃で気を失っていたらしい。
ふっと気が付いて、あたりを見回すと、そこには今まで見たこともない風景が広がっ
ていた。
まるで泡ぶろのように、海面がまっ白い泡で覆われていた。
「おれは死んだのか・・・・・」
体をつねってみたら、なぜだかわかんねぇども、その時痛くなかったんだ。
「あぁ、やっぱり、俺は死んだんだ。ということは、ここは三途の川ということか」
今までそんな海を見たことねぇから、俺はてっきり死んで三途の川を渡っていると
思ってしまったべ。
ふっと横を見たら仲間の船が見えた。



「あぁ、あいつも一緒に死んだんだな。一緒に三途の川を渡っているんだな」
自分のことを死んだと思っているから、そう思ったのさ。
「大丈夫か?」
無線から仲間の声が聞こえて、初めて、俺は自分が生きているんだとわかった。
それまでずっと俺はあの世にいると思っていた。
体のあちこちを触ってみた
「生きてる・・・・・生きてる・・・・」
あの時の嬉しさは、一生忘れられねぇべな。




ほんでも喜んでばかりいられねがった。
次々と津波が襲ってきたからなぁ。
五波、六波・・・・その間に後ろから引き波が襲ってくる。
引き波が来ると船首を百八十度回転して乗り切り、津波が来るとまた船首を回転し
て乗り切る。
その繰り返しで、どれだけの数の波を乗り切ったか。
無我夢中で乗り切った。




やがてあたりが暗くなってきたころ、津波がだんだん小さくなってきた。
夜の航行は危険なので一晩、海の上にいた。
心細かった。さびしかった。仲間とおたがいに無線で励ましあった。
「夜が明けるまでがんばるべ」
「もう少しだ。がんばれ」
やがて白々と夜が明けてきた。




海の上にはおびただしい瓦礫が浮いていて、おいそれとは港には近づけそうにな
かった。
かまわね。船なんかぼっこれでもいい。
瓦礫をかき分け、時には瓦礫に船をぶつけながら港に急いだ。
「ここは・・・・どこだべ・・・・釣師の港ではないよなぁ・・・・。いや、釣師の港だ・・・・釣
師だぁ・・・」




港について、わが目を疑った。
あるはずの家が、町が、すべてなくなっていたからなぁ。
そこにあったのは、泥をかぶった瓦礫だけだった。



俺はなぁ、間違っていた。
漁師が命のつぎに大事なのは船だと思っていた。
ほだがら、いち早く船を沖出しして、命がけで守った。
ほだども・・・・・ほだども・・・・・
帰って来てみたれば、家も家族も流されていた・・・・・。
息子一家は助かったども、女房は流されて十日後に見つかった・・
遺体でな・・・・・。
命のつぎに大事なのは、船なんかでねぇ。
もっと大事なものがあった。
あの時、俺は、なんで家族のそばにいて、家族を守らなかったんだべ。
なんで、なんで・・・・家族を守らねで船なんど守ったんだべ。



釣師浜の漁師は、船を守った。
そのおかげで十艘流されただけで、船は三十六艘も残った。
被災した浜でこんだけ残ったのは釣師浜だけだ。これは奇跡だべ。
俺たちが命がけで船を守ったんだ。
だども船が残って何になる。




原発事故で、魚一匹とることさえゆるされねぇ。
魚を取らねぇ漁師なぞ、もはや、漁師ではねぇ。漁師って言われねぇべ。
おらなぁ、毎日、毎日、女房に手を合わせて謝っていっと。
「かんべんしてけろ。かんべんしてけろ」
毎日、毎日、泣いていっと。悔しくて、悲しくて、苦しくてな・・・・
いつか、時間がたてばすべてを忘れるからと、人は慰めてくれる。
ほだども、俺は忘れねぇ。
命のつぎに大事なものを、俺は間違った。
忘れてしまいたいげんと、忘れねぇ。
忘れてはなんねぇと思っている。

           おしまい

(何の連絡もなく、勝手にこの紙芝居をコピーして使っている人が居るらしいとの連絡が入りましたので、絵の一部を非公開にさせていただきました)

# by asahikanokami | 2013-05-07 22:35 | 避難生活