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元朝日館の女将のてんてこ舞日記


東日本大震災で被災した小さな旅館の女将の日々
by asahikanokami
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福島第一原発

(文章教室に提出した作品)

また三月がやってきた。明日はまさに三月十一日である。今頃になると世の中に『東日本大震災』という言葉が溢れ出す。今年は十年目。今まで以上に節目、節目と騒がれている。
 節目って何だろう。被災者には節目などあるはずがない。家族を亡くした人、行方不明の人にとってその日は命日だが絶対に節目ではない。昨日から続く今日だ。ましてや何を持って十年で一区切りなどと言うのか、不思議でならない。私は十歳年をとり、かの人たちは十歳若いまま。それだけのことだ。この日は亡くなった人を静かに偲び、思いっきり泣いても良い日だと私は思う。

さらに福島県を考えると、原発事故はこの十年間何一つとして解決していない。アンダーコントロールなどされていない。だから十年目、十年目と大騒ぎすることに違和感と腹立たしさを覚える。

昨年の一月。福島県民なら一度は見ておかなければと、半ば脅迫観念のような思いを抱いて福島第一原発の見学に行った。同行したのは、友人の小野文恵アナウンサーと彼女の同級生の某テレビのディレクター、ある企業の広報担当者、そして夫だ。事前に見学の申し込みが必要だという。住所氏名はもちろんの事、生年月日や職業とさらに詳細な肩書までも必要だった。その時にはまだ避難解除されていなかった双葉町と、第一原発の二か所の見学申請を出したのに許可が下りたのは第一原発だけだった。案内してくれた新地高校の先生は、何度も見学申請を出したけれど許可が下りなかったのは初めてだと驚いていた。許可が下りなかった理由は不明である。

まず見学者全員が富岡町にある廃炉センターの一室に集められた。ここは東電の施設だ。広い部屋に入るとすぐに三名の社員が出て来て
「事故を起こしてしまい皆様には多大なるご迷惑をおかけしました。申し訳ありませんでした。私たちは誠意をもって事故処理に励んでおります」
と深々と頭を下げた。誠意をもって事故処理に当たっているという言葉が、私には空々しく聞こえた。福島県に住んでいる者は、みんな知っている。みんな思っている。事故処理に誠意をもっているとはとても思えないことを。
 続いて東電がいかに懸命に事故処理に当たっているかという、まるでPRのような映像を見せられてから見学用のバスに乗った。普通の格好で良いことにまず驚いた。以前テレビで見た防護服もマスクも必要が無かった。ただ見学中に浴びた放射線量がわかるようにポケットに計測計が入ったベストを着せられた。

バスの中にはその場所の線量が表示される大きな計測機械がついていた。一号機が近づくにつれて数字がどんどん上がっていく。デジタル数字は三十マイクロシーベルトと表示している。さらに数字が上がっていく。かすかに恐怖を感じ心臓が動悸を打ち始めた。爆発した一号機の前を通り、二号機の前を通り過ぎる。下から見上げる建屋は想像よりもずっと大きかった。二号機には覆いがかかっていた。そして爆発した三号機、ただ一つメルトダウンを免れた四号機とそれぞれの建屋の前を通り抜けた。最後は、四つの建屋がすべて見下ろせる丘の上でバスは停まり、全員がバスから降ろされた。

すぐ目の前に一号機が見える。距離は百メートルあるだろうか。建屋の周りは防護壁で覆われているが、屋上の瓦礫は爆発当時そのままに残っていた。瓦礫は、九年間放置されたままになっている。放置というのは正しくないかもしれない。処理しようとしているが、放射線量が高くて手が付けられないのだ。先日の新聞には、七京ベクレルあったという記事が載った。七京・・・ 。使ったことが無い単位なだけにどのぐらい高い数値なのか想像すらできない。

二号機は、水素爆発こそしなかったものの、窓が吹き飛んでいる。あの日、二号機は建屋内の空気圧を下げるため、ベントという排気作業が行われた。ベントに使われた煙突は、九年経って劣化が進み崩れる恐れが出てきた。そこで煙突の半分を切り取り、万が一崩落した時に被害が少ないようにと作業中だった。その煙突も線量が高くて作業が遅々として進まない。遠隔操作のロボットを使っての作業だが上手くいかず苦闘している。

三号機は一番激しく水素爆発した。見学の時はまだ核燃料棒を取り出す作業が行われていたので、建屋の上に覆いのようなものがかぶせられていた。千五百本あった燃料棒の取り出しは八年かけて先月の末にやっと終了した。だが三号機が終了してもまだ二号機と一号機の燃料棒の取り出しが待っている。線量が高いので遠隔操縦のロボットを使うしかない。すべてが終了するまで三十年以上かかるという。気が遠くなるような話だ。

さらにもっと厄介なのがデブリと呼ばれる物の取り出しだ。格納容器内で溶け落ちた核燃料である。放射線量がとてつもなく高い。格納容器の上蓋でさえも三京ベクレルになるという。これは即死する数値だ。高濃度の放射能に邪魔されて、デブリ取り出しの見通しは立っていない。今の技術では手も足も出ないのだ。廃炉にするにはデブリを取り出した後、冷却などの作業を経て四十年以上かかるらしい。

その中で四号機は水素爆発したが、点検中で稼働していなかったことが幸いし、燃料棒の取り出し作業が真っ先に終了している。


 丘の上から建屋を見下ろすと真っ白な防護服で体中を覆った大勢の作業員が、せわしなく走り回っている。三千人から四千人の作業員が働いていると聞いた。想像以上の人数が働いていることに驚く。丘の下にいる作業員は白い防護服。丘の上の私たちは普通の格好である。ここの線量はどのぐらいだろう。ちょっと不安になる。こうして建屋を見下ろしている間も、絶え間なく放射線が縦横無尽に飛び交っている。その放射線は私の体を通過して細胞を傷つけていると想像したら急に息苦しくなった。
「ここにいられるのは十分間だけです。九分過ぎました。もうバスに乗ってください」
案内員の声に、みんな無言で走るようにバスに戻った。バスの中のデジタル数字は三十六だった。三十六マイクロシーベルトか・・・・ 。今の新地町の線量は0・0六マイクロシーベルトだ。つかの間の滞在とはいえ、これがとても高い数値であることは私でもわかる。息を止めても何の対策にもならないことは知っているが、なんとなく呼吸が抑え気味になるのが不思議だ。全員が乗るとバスはゆっくりとした速度で廃炉センターに向かって走った。急いで帰らなければならないほど被爆はしてないのだろう。ほっとして心臓の鼓動が少しゆっくりになる。

構内には、無数の巨大タンクが並んでいる。放射能で汚染された地下水や雨水などを貯めておくタンクだ。その数はすでに一千基もある。一基の中に百十万トンの汚染水が保管されているという。汚染水には今の技術では取り除くことができないトリチウムという放射性物質が残っている。来年には構内がタンクで埋まり、保管場所がなくなる。

今、この汚染水の処理も大きな問題になっている。政府と東電は、トリチウム以外の放射性物質を取り除いて、海に放出したいらしい。海は広いから放出してもトリチウムの濃度は薄まるから安全だと主張する。けれども今、海に流したらどうなるだろうか。原発事故の風評被害からやっとここまで復興した福島県。また放射能汚染と騒がれることだろう。農作物はもちろん魚介類も売れなくなる。この十年間の農家や漁師の必死の努力が水の泡と消える。

福島県が海に汚染水を放流するかどうかで揺れているときに、宮城県の女川原発の再稼働が決まったというニュースが流れた。宮城県の人たちは、女川の人たちは、福島第一原発の今の姿を知らないのか。十年たっても何も解決していない。一歩も前進していない。これから何十年も放射能に苦しめられる私たちのことを知らないのだろうか。とても悲しくなった。

文恵さんたちをいわき駅まで送った。国道六号線沿いの田んぼや畑に、真っ黒な大きな袋が無数に積まれている。フレコンバックと呼ばれる土嚢だ。汚染された土地の表土が入っている。住宅、公園、学校、田畑などの汚染表土を剥いでフレコンバックに詰めてある。夥しい数の黒い袋が沿道何十キロ、累々と山積みにされている。その異様な風景に車内は無口になった。汚染水だけでなくこの汚染土の始末も大きな問題なのだ。政府は、公共工事のコンクリートに混ぜて使うと言っている。果たしてそれでいいのか。安全と言えるのか。私にはわからない。ふと見ると文恵さんのほほに涙が流れていた。そっと手を握ると
「福島第一原発の電気は全部東京で使われていたのよね。福島県では一ワットも使っていなかった・・・・ それなのに・・・・ ごめんなさいね」
と言った。
「見学できてよかった。実際に現場を見て原稿を読むのと、見ないで読むのとでは伝わり方が違うと思うの。見学できてよかった。美保子さん、連れて来てくれてありがとう」
彼女もまた私の手を握り返した。

この世には人智をもってしても解決できないことがいっぱいある。自分たちは何でもできると奢り高ぶってはならない。自然災害や原子力など人間の力では制御不能なことがまだまだたくさんあるのだ。

子孫に美しい地球を残したい。

残念ながら福島県は放射能に汚染されてしまった。未だに故郷に帰れない人が多くいる。必死に除染して元の美しい福島県に戻したいと頑張っているが、その道は遥かに遠くとても険しい。今も解決策を手探りで探している状態で、暗闇の先に灯りさえ見えていない。
 女川を始め原発保有地の人たちが、私たちのような体験をしないで済むように、原発事故で悲しむこと、苦しむことが無いようにと切に願う。

                 (令和三年三月十日)

(参考)ベクレル     放射能の量をあらわす単位

シーベルト    被ばく線量をあらわす単位



# by asahikanokami | 2021-03-10 18:55 | 旅の話

文章教室に通っています

いろいろな事を書き残しておきたい

と仙台のカルチャースクールに月二回通っています。

クラスメートは6名。皆さんは、長い人で十六年ぐらい通っ

ているとのことで文章が上手。

その中に混ざって七十の手習いです。

今書き残しておかないと私の頭の中から多くの記憶が消え

てしまうという危機感。

今月は小学校時代の私のことを書きました。長文ですので

お暇な時にお読みください。


   『トットちゃんとみっこちゃん』

 黒柳徹子さんの『窓際のトットちゃん』がベストセラーになった時、母から電話がかかってきた。
「『窓際のトットちゃん』を読んだ? あれ読んだらみっこにそっくりだったよ」
と言う。私も読んだけれど自分と似ていると思わなかった。わたしにはもっと常識がある。先生のいうことは良く聞いたし、いつも優等生だった。私は絶対にトットちゃんではない・・・ はずだ・・・。

 保育園の時、山の中で迷子になったことがある。
「カラスを取りに行く人この指とまれ!」

という私の呼びかけに、近所の子供三人が集合した。なぜカラスだったのか謎だけれど、その時私はカラスを捕まえたいと思ったらしい。母から聞いた話だと、私はカラスを捕まえる道具としてつぶれた洗面器を持っていたという。つぶれた洗面器でカラスが捕まると思っていたのだろうか。

カラスを捕まえる場所は、いつも父とキノコを採りに行く山だった。いつも来ている山だからと、皆を引き連れて得意顔で山道を登った。けれどもカラスは捕まらなかった。帰り道、いつもの道と違うと思ったときはすでに遅かった。山の中で迷ってしまった。歩いても、歩いても麓には着かなかった。そのうちあたりがだんだん暗くなってくる。一人が泣きだした。するともう一人、また一人と全員が泣きだした。泣きたいのは私だ。だが私が泣くわけにはいかない。みんなを連れて帰らなければならないのだ。あたりはうっそうとした森。どんどん暗くなり明かりも見えない。
「ホォー。ホォー」

暗闇の中から不気味な鳴き声がする。フクロウだろうか。

「坂を下ればどこかに着くから泣かないで!」
と皆を励まして沢に沿った道を下りながらも恐怖で足がうまく動かない。暗い山道を必死に歩いたが泣き出したいぐらい心細かった。どのぐらい歩いたのだろう。遠くに明かりが見えた。ほっ。その明かりを頼りに歩き、やっと麓に着いた。

家では警察や近所を巻き込んで大騒ぎになっていた。一緒にいたのは年上の子ばかりだったのに、なぜかこっぴどく叱られたのは一番年下の私だった。首謀者とレッテルを張られる。一人だけ泣いてなかったことも大人の心証を悪くした。
「もうみっこちゃんと遊ぶな!」

と言われた子もいたらしい。母に
「あんたは、すぐ先頭に立って行動するんだから。こんな騒ぎを起こして!」
と懇々と諭された。ちょっとへこんだ私だったが、子供のことだから立ち直りは早い。そんなことはすぐに忘れて、またすぐにみんなと仲良く遊んだ。

私が小学校に入学して間もなく、母はたまたま学校の前の道を通った。授業中で誰もいないはずの校庭で、一人だけブランコで遊んでいる子がいた。見覚えのある洋服。良く見るとそれはわが子だった。
「みっこ! みんなが勉強しているのに、どうして遊んでいるの? 教室に戻りなさい」
と叱ると、私は
「先生が遊んできなさいって言った」
と楽しそうにブランコを漕いでいる。

放課後に母は担任の若い先生を訪ねた。母の顔を見るなり開口一番に先生が言った。
「困っているんです。本当に困っているんです、美保子ちゃんには。私もどう指導した良いのか毎日悩んでいるんです」
先生は、ほとほと困っている様子だった。
 

近所の子供は全員が年上だった。入学前、保育園から帰って来て遊びに行くと、皆は宿題をしていた。一番仲良しの子は、姉妹四人全員が机を並べて勉強していて、宿題が終わらないと遊びに出してもらえなかった。

「みっこちゃん、宿題が終わるまで待ってってね」

と待たされた。『聞きたがりのみっこちゃん』と言われるほど好奇心旺盛な私。じっと見ているはずがない。宿題をしている子のそばで
「それはなに? それはなんて読むの? ねぇ、ねぇ、みほこってどう書くの? 」

とうるさい。他の姉妹が静かに宿題ができるようにと、一番上のお姉さんがみんなの隣で私に勉強を教えた。算数や読み書きを教そわった。おかげで、私は就学前にひらがなもカタカナも簡単な漢字も書けた。算数も二けたの計算や九九まで覚えた。
 今の子供たちと違って、昔は、勉強は学校でするものだった。入学前に字を読める子はほとんどいない。そんな時代なのに私はすでに予習ができていた。先生が教えてくれることは、全部知っていることばかりだった。先生が黒板に『2+2』と書いてイコールを書く前に
「よん!」
と答えてしまう。これでは授業にならない。困った先生は、私が答えることを禁止した。けれど私は言いたくて仕方がないのだ。知っているから大きな声で答えたい。言いたくて、言いたくてウズウズソワソワする。先生にとっては目障り極まりない。どんなに小さな声で答えても、先生には聞こえて注意された。
 テストも時も、先生が用紙を配り終えないうちに全問解いてしまう。それだけではない。暇なのであたりを見回すと、他の子の答えが間違っているのが気になってくる。おせっかいな私は、教室中を歩き廻って正しい答えを教えて歩いた。
「ここ違う。3だよ。あ、こっちは7」
「美保子ちゃん! 椅子にちゃんと座っていなさい」
と先生に注意されると、椅子に座ったままズルズルと椅子ごと移動して教えて歩いた。
 困った先生は、皆には一枚、私には二枚のテスト用紙を渡した。それでも私の方が早く書き終わった。それならとみんながまだ一桁の計算をしているときに、二桁の計算のテスト用紙を渡した。それでも皆よりも早く終了してしまう。そこで
「美保子ちゃんは、校庭で遊んでいなさい」
ということになったのだ。

先生はさぞ教えにくかった事だろう。きっと困ったと思う。邪魔になるからと時々校庭に出された。校庭で遊ぶのに飽きると勝手に図書室や保健室で遊んだ。そこも飽きると校長室にまで押しかけて校長先生と遊んだ。

昔の校長先生は威厳の権化で、校長室は児童が遊びに行くような場所でなかった。先生たちでさえ入室するのを遠慮していたのに、私は平気で遊びに行った。休憩時間になると担任の先生がペコペコお辞儀をしながら私を引き取りに来た。校長先生は
「あまり先生を困らせるんじゃないよ」
と言ったけど、私には先生を困らせているという自覚が全くない。だから
「何も困らせるようなことをしていないのに、校長先生はどうしてあんな事を言うのだろう」
といつも不思議で仕方がなかった。


 トットちゃんとみっこちゃん。確かに似てないこともない。何にでも興味津々だし、すぐに首を突っ込む。思いついたら物おじせずに行動する。人のことが気になってついついおせっかいをしてしまう。三つ子の魂百までと言うけれど、私のその性格は今もほとんど変わっていない。

大好きな黒柳徹子さん。今も第一線で大活躍していることに驚異と敬意を感じている。トットちゃんのおかしなところではなく、徹子さんの素晴らしさにあやかりたいと思うが、そうは問屋が卸さない。

                            



# by asahikanokami | 2021-02-12 19:39 | 私のこと

ツルを編む

おっとっとが、実を食べたいと植えたアケビ。
始末に負えないほど、ジャングル状態に育ちました。
昨年は、おっとっと以外は誰も食べないアケビの実が、百個以上実りました。
ひゃぁ~~~~~!!

ツルを編む_f0061402_12530552.jpg

















ツルを編む_f0061402_12553086.jpg
そして冬に、選定したら、ツルがたくさん出ました。
捨てるのももったいない。何か作ろう。
アケビのツルを干しておきました。

ツルを編む_f0061402_12561210.jpg
さて、籠でも作ろうかな。
ネットでツル編みを教えている教室を探したら、ありました!

というわけで、仙台の「ツルを編む」という教室に、隔週ですが通うことになりました。
何でも最初は、ドキドキ、ワクワクします。
先生がとても優しい方で、良かったぁ!
第一回目は、アケビのツルで、壁に掛けられる籠を編みました。
自由に編むというのが、私にぴったりです。

ツルを編む_f0061402_12575580.jpg
そして二回目は、すこし、丁寧に、きっちりと編む籠を教えてもらいました。
力を均一に入れて編むことができなくて、いびつな籠になってしまいました。

ツルを編む_f0061402_12585226.jpg
「大丈夫ですよ。それも個性です。なかなか素敵に出来上がりましたね。最初から上手な人は一人もいませんよ」
先生のやさしさで、しょげていた気持ちを立てなおしました。

ちょっと時間が余ったので(雑な分、早く出来上がる)籐を使ったコースターを教えていただきました。
アケビのツルは、硬くて、あちこち曲がっていて、さらに、こぶがあったりするので手こずります。
籐は、柔らかいし、まっすぐなので、編みやすいです。
「籐は、練習するのにもってこいですので、お家でも練習してみてください」
「はぁい!」

素直な私は、家でも練習してみました。
なかなか思うようにはならない。それでも、なんとかコースターが出来上がりました。

ツルを編む_f0061402_12593277.jpg
7月1日の授業は、タンブラーカバーだそうです。
予習してみました。思うようにきれいに編めない。編み目が揃わない。

ツルを編む_f0061402_12595993.jpg
籠バックを作りたい私。遠い、遠い、遥かに先の道のりだけど、頑張る!
第一、手と頭を使うから、絶対、認知症予防になると思っています。←これが一番大事!


# by asahikanokami | 2020-06-29 13:06 | 私のこと

心も送っていただく

チリ地震津波から60年なそうです。
あの時、私は小学校5年生。岩手県の岩泉町に住んでいました。
岩泉も沿岸部が被害を受けました。
幸い、私が住んでいた岩泉町中心部は、海から遠くて被害はありませんでした。
地震の揺れなど何も感じずに生活していたのに、突然、地球の裏側から襲ってきた津波。
子供心に、そんなことが起きるとは信じられず、不思議だと思う事が津波の恐怖を倍増させました。
そして、支援物資が届き、小学校の体育館(当時は講堂と呼ばれてました)は物で溢れました。
毎日、毎日、母が整理に駆り出されて,
講堂に行くと母に会えました。
母と一緒にたくさんの人が支援物資の整理をしていました。
「あんたも手伝いなさい」
と母に言われて、大勢の大人に混じって手伝ったものです。
私は体が大きかったので、邪魔者扱いも子ども扱いもされず、届いた服の整理などを手伝いました。
届いた支援物資の中には、真っ赤なハイヒールもあり
「こんなもの、岩泉で誰が履くんだろう。長靴の方がずっと役に立つのに」
と思ったのでした。

それから50年。
まさか今度は自分が津波被害にあうなど思いもしませんでした。
最初は
「一人2点までです」
と数量制限されて配布された支援物資も、次第に量が増えて
「好きなだけ持って行ってください」
と言われるようになりました。
場所も、次第に大きくなり最後は体育館でした。
すべて流され、明日着るものも、防寒服も無い時に、頂いた支援物資は涙が出るほどありがたかったです。
でも、中には、どう見ても着ることができないような汚れた服や、破けた服などもあり
送ってくださった方は
「着るものが無いのなら何でもいいだろう」
と思ったのかなと、送り主の気持ちが透けて見えて悲しかったです。
「洗濯してあります」
と書かれた下着。洗濯してあっても、どこの誰が履いたのかわからない下着を頂く気にはなりませんでした。

そしてそれから9年の歳月が流れました。
私のタンスの中には、あの時頂いた洋服がまだたくさん残っています。
お友達が下さった物もたくさん残っています。
そろそろ断捨離して少しずつ終活しなきゃと思うのですが、なかなか手放せません。
なぜなら、洋服と一緒に
「がんばってね」
という送り主の心まで受け取っている気がするからです。
送ってくださった方の気持ちがありがたくて捨てられません。
体育館で見た、たくさんの洋服が山積みになっている風景。
あの時、あの体育館の風景から
「こんなに多くの人が、私たちを応援してくれているのだ」
と感動し
「がんばらなきゃ」
と、生きる勇気を貰いました。
でも、やっぱり
「今まで支えてくれてありがとう」
と感謝しながら、少しづつ頂いた服を手放すことにしましょう。

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# by asahikanokami | 2020-05-25 10:00 | 避難生活

チクチク三昧の日々

コロナウィルス騒ぎで、出かけることが無くなりました。会議はすべてなくなり、いろいろな行事も無くなりました。
不要不急以外の外出を控えてくださいと言われては、出た切り老人と家族から呼ばれるほど出歩くのが大好きな私でも、外出を自粛してしまいます。
でも、じっとしているのは苦手。
それなら、いつも手抜きのお掃除や片付けをすればいいのですが、それはしたくない。
好きなことをしたい。
超我が儘になったのは、年齢のせいです。
もうこの歳になったら、嫌なことはせず、好きなことをすると決めたのです。
なんと勝手な言い分でしょう!
自分でも笑ってしまいます。
で、毎日、毎日、刺し子に励んでおります。

まず最初に出来上がったのは、刺し子をしたリュック。
会津木綿に「雪月花」を刺しました。
この図案は、以前、南青山で東北マダムズコレクションを開催した時にお目にかかった刺し子作家の斎藤禮先生のものです。
禮先生のご本から拝借しました。
実際の図案は、もっといっぱい刺しているのですが、自分流に省略しました。
出来上がってみたら、ちょっと大きすぎました。
リュックの中は、外の刺し子の桜にちなんで、桜の布にしました。


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そして調子付いた私は、「サンプラーキルト」と呼ばれるキルトに挑戦。
手芸グループ「うみみどり」のメンバーの一人が、作ったバックがとても素敵だったので真似しました。
これも会津木綿です。
端切れがたくさんあるので、どこにどの布を入れたらいいか悩みながらも、とても楽しい時間でした。
出来上がったら、これもちょっと大きい。
私のことだから、いっぱい荷物を入れて重くなるだろうと思い、ショルダーバックになるように、肩ひもを付けました。
うみみどりのメンバーが作ったバックは、ファスナーは付いていなかったのですが、中身が見えないほうが良いかなとファスナーを付けました。
後ろは刺し子にしました。
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ちょっと大きかったので、一回り小さいバックも作ってみました。
やはり、会津木綿です。

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お揃いでポシェットも作りました。

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そしてさらに、余り布でポーチ、きんちゃく袋、ペンケースをお揃いで。

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さらに、さらに、バックインバックも作りました。
バックインバックの後ろには、カードがたくさん入ります。

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さらにさらにさらに、日本手ぬぐい二枚でポーチも作ってみました。
こちらは、まだ改良の余地ありですので、そのうちリベンジする予定です。

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外出自粛で、仙台まで材料を買いに行くことができないので、すべて手元に残っている材料で作りました。
そしてわかったことは、私って案外こういうチマチマしたことが好きかもしれないという事。
朝から晩までずっと刺し子をしていても飽きません。
でもこれは、自分が使いたいという一心で作っているから続けられるのです。
もし誰かに作ってほしいと頼まれても断るだろうな。
こんな面倒くさいこと、自分のため以外には出来ません!










# by asahikanokami | 2020-04-17 13:36 | 私のこと