元朝日館の女将のてんてこ舞日記


東日本大震災で被災した小さな旅館の女将の日々
by asahikanokami
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正一の川柳碑

今日、十和田市文化協会から一通の封書が届きました。
宛名を見たら7年前に亡くなった舅の名前でした。

開封したら、舅の川柳碑の写真が出てきました。
「おじいちゃん・・・・・・・」
それを見たら、一度にあの年に戻されました。

十和田市文化協会が「光と風のアートプロムナード・野外文芸館」として、官庁通りの600メートルの歩道に、川柳と俳句と短歌の石版を埋め込み、埋設展示という新しい形の野外文学館を作ったのです。

新聞で作品の募集を知った舅は、毎日、毎日、川柳を考えて応募したのでした。しかし、その年は落選してしまい、なお一層、創作意欲を燃やしたのです。
そして、二回目の「水」という題の時、川柳部門での天位に選ばれたのです。その時の喜びは今でもはっきりと思い出せるほどの喜びようでした。

念願だった石碑が完成したと除幕式の案内が来ました。
でもその時、実は、我が家はそれどころでありませんでした。
娘が危篤状態だったのです。舅には娘の病状を詳しく教えていませんでした。いずれ、悲しむ時が来る。それまでは知らないほうがいいだろうと思ったからです。

舅は出席したいといったのですが、2月だったので寒いからということを理由に、欠席させたのです。
「おじちゃん、暖かくなったらみんなで見に行こう。それまで待ってね」

6月に娘が亡くなり、舅の落胆ぶりは大変なものでした。寝付いてしまったのです。お通夜にも出られませんでした。
しかし、そんな舅が告別式にあらわれたのです。周囲が驚く中
「自慢の孫だった・・・・。だから、今日は前代未聞のことで菜穂を見送ってやろうと思う。爺様のために孫が弔辞を読むことはあるけど、孫のために爺様が弔辞を読んだという話は聞いたことがない」
そう言って、弔辞を読んだのでした。

初孫として菜穂が生まれた時の嬉しさ、高校に一番で入学して答辞を読んだ時の誇らしさ、山形大学の大学院に進んだ時のこと、そして旭電化に就職できたときのこと。
最後に菜穂の遺影に向かって大きく手を振り
「菜穂ちゃん。まもなくじいちゃんもそこに行くから。それまでバイバイ!」
と言ったのでした。会場にいた人、全員が、舅の弔辞に泣かされました。

その後、食事も細くなり、三度の飯より好きな川柳の句会にも出て行かなくなりました。

おっとっとの妹たちと相談して、十和田市まで石碑を見に行ったのは、その年の10月のことでした。
舅は、自分の川柳が、この「駒街道」に永久に残ることをとても喜び、ちょっと元気になり、また川柳の句会に出かけるようになりました。

禍福はあざなえる縄のごとしと言いますが、良い事も悪いことも、あるのが人生。
娘のこと、舅のこと、いろいろ思い出してほろりとしました。
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by asahikanokami | 2013-12-25 15:15 | 我が家の家族と親類
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