元朝日館の女将のてんてこ舞日記


東日本大震災で被災した小さな旅館の女将の日々
by asahikanokami
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人生の始まり そして終わり

昭和48年2月28日12時38分。

私は一人の人間の人生の始まりに立ち会いました。
「可愛いお姫様ですよ」
と私の胸の上にへその緒が繋がったままの、羊水や血にまみれた娘が乗せられました。

か弱い声で泣いている子。赤黒い顔をくしゃくしゃにして。
「こんにちわ。仲良くしてね」
と挨拶しても泣いているばかり。
「泣かないでね」
と話しかけたら泣き止みジッと私の顔を見る。可愛い・・・。

生まれたばかりの赤ん坊は耳も聞こえなければ目も見えないと育児書には書いてありました。しかし、生まれてきた子は、看護士さんがドアを閉める音にも驚いて悲鳴を上げるし、私の顔をジッと見つめて、私が顔を動かすと目で追うしぐさをしました。

この子は目も見えているし耳も聞こえている。

泣いている時に
「どうして泣くの?あなたが泣くとママまで泣きたくなるでしょ。これから楽しいことがいっぱい待っているんだよ。だから泣かないでね」
と話しかけると、言っていることを理解しているかのように私の顔を見て泣き止むのでした。

あの年は3月になっても雪が降って寒かった。

産院の窓辺で雪を見せながら
「ほら、あれが雪だよ。きれいだね」
と話しかけたりしたものです。

そして平成12年6月8日。
私は一人の人間の人生の終わりに立ち会いました。

3月いっぱい持つかどうかとお医者様から言われていました。
末期の中咽頭癌。最初の手術で舌を半分切除され、お腹の筋肉で偽の舌を作ってもらいました。

偽の舌は動かず味覚もありません。食べることと話すことが難しいと言われたのに
「私は食いしん坊だから、食べられない人生なんて嫌だな。おしゃべりだってしたい」
と、言葉の教室などに通って必死になって訓練して、食べることも話すことも出来るようになった娘。

しかし、癌は再発し転移してしまいました。二度目の手術。もうすでに癌細胞は、首の動脈と神経の周りに転移していました。

「自分の体なのに、先生や親が知っていて私が知らないのはおかしい。自分のことはちゃんと知っていたいから、隠さずに告知してください」
と担当のお医者さんに直訴。
告知するまでもなく、娘はカルテも読めたし医学用語も知っていたので、娘に病状を隠すことは出来ませんでした。

「もし、手術して癌細胞を全て取り去るとしたなら、神経に傷がつく可能性があります。何かしらの後遺症が残ります。最悪、植物状態になります。癌細胞を残さず取り去るのは難しいです」

その時私は
「どんなになってもかまいません。植物状態でもいいですからどうぞ命だけは助けてください」
と先生にしがみつきました。

しかし、娘は
「今のこの状態が私です。もしなにかこれよりも能力が低下するとしたらそれは私ではありません。そこまでして生きていたくありません。ましてや植物状態でなんて生き続けるくらいなら死んだ方が良いです。私は最後まで私でいたんです。もし、生命維持装置をつけると言うなら拒否します。それは絶対に嫌です。私は私の人生を最後まで私らしく、しっかりと意識を持って生きたいのです」
と毅然として言ったのでした。

母として娘に言う言葉は見つかりませんでした。娘は泣きもしないでしっかりと顔を上げて先生のお話を聞いているのに、私はふがいなくて涙を止めることさえ出来ませんでした。

最後は増え続ける癌細胞が食道と気管を押しつぶし、食べることも話すことも出来なくて、そのことが一番可愛そうでした。三度目の手術で喉に穴を開けて管を通し、そこから呼吸するようになりました。

3月いっぱいは持つまいと言われていたのに
「桜が見たいです。お花見したいからその頃退院させてください」
と紙に書いて、転院した相馬公立病院の先生に渡したらしいのです。話すことが出来なくなってからは筆談でしたから。

そしたら先生が
「こっそりと病院の庭の桜の枝を折ってきて菜穂ちゃんの病室の飾ってあげて」
とおしゃってくださって、看護士さんがまだつぼみの桜を飾ってくださいました。

暖かい病室でたちまち桜は開き、満開になりました。すると、ちょっとだけ娘が元気になったのです。そしてどうしても外で花見をしたいと思うようになりました。

その思いは娘に力を与え4月16日私の誕生日に病院の庭の桜を見ることが出来ました。
「ストレッチャー(移動ベット)では私の美学が許さないから、車椅子にして」
というので、車椅子に乗せて毛布でぐるぐる巻きに包んで、点滴などの物々しい機械をいっぱい引き連れてのお花見でした。

青い空に、薄桃色の満開の桜の花。

しかし、恐れていた日が来ました。来て欲しくない日が来ました。6月8日。
朝に病室に着いたらもうすでに先生が心臓マッサージをしている所でした。

心電図が小さな山を作ってはまっすぐになり、又小さな山を作ってはまっすぐになり、とうとうピーという音でまっすぐになってしまいました。

おっとっとと息子は間に合わなかったか・・・・。

その時、おっとっとと息子が病室に飛び込んできました。すると娘が
「ふぅ~」
と息を吐いたのです。
「お姉ちゃん!お姉ちゃん!がんばれ!!死ぬな!!」
息子の声にまた
「ふぅ~」
そして目から涙が一筋流れました。

癌だと言われた時も、舌を切り取られた時も、再発した時も泣かなかった娘なのに。

「ふぅ~~」
そしてそれっきり・・・・・。

亡くなってから自分で遺影を用意していたことを知りました。アイバンクに登録していたので角膜を提供しました。今でも角膜だけはどなたかの目の中で生きています。それが私たち夫婦にとって何よりの励ましになっています。

私は一人の人間の人生の始まりと終わりに立ち会いました。
その経験は私の人生の一番の宝であり、その経験は私の人生に一番の影響を与えたし、きっと私が死ぬまで影響を与え続けることでしょう。

最後まで毅然としていて、自分の人生を投げ出さず、いつも希望を失わず、努力を惜しまず、自分らしく生きていった娘は私の自慢であり誇りです。

by asahikanokami | 2007-02-24 10:03 | 亡くなった娘の話
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